「財政再建と減税の両立」に成功した「最強の宰相」松平定信 それでもなぜ、彼は江戸の庶民に嫌われたのか

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田沼も基本的にこの路線を継承する。田沼の出した倹約令は前後通算14年続き、吉宗の時よりもさらに厳しさを増している。

また、「印旛沼・手賀沼干拓」、「蝦夷地(現・北海道)開拓計画」を構想し、大規模な新田開発を推し進めようとした。

他に「南鐐二朱銀」を改鋳して出目(貨幣の純度を下げることで差益を得ること)を獲得し、株仲間をあらゆる業界に結成させて、業界統制を行った。

さらに大商人から「御用金」と称して資金を供出させ、それを元手に米相場に介入することで米の値段を高め、幕府の財源を増やそうともしている。

そして、全国の大名たちに対し、災害時などの被災地救援となる「拝借金」を停止し、一方で利息つきの融資、「公金貸付」を行おうとした。

こうした施策を行う中、田沼は、頭打ちとなった米収入を財源とするよりも、むしろ金銭を直接徴収する方が効率的だと考えついた。そこで、株仲間をあらゆる業種に拡大して「運上・冥加」という名目で金銭を納めさせたのである。

吉宗は株仲間を公認することで諸物価を操作するよう命じ、米価上昇を目指したのだが、田沼はさらに全国津々浦々に株仲間をつくらせ、村々の生活まで商行為に組み込むことで、金銭収入を増やそうとした。

財政再建と民営化の功罪

これに加え、田沼は新規事業を起こし、金銭収入を拡大しようと考えた。とはいえ、まったく新しい事業を考えつくことは難しいため、大商人たちに事業計画を提出させ、見返りに委託発注するという形をとった。

また、これまで地域や村ごとに行われていた各種労役を商人に委託し、かわりに手数料を住民から取ることを許可した。

要するに、あらゆる生産過程、流通過程に介入し、中継ぎを増やしてマージン(差益)を取ろうとしたのである。

つまり田沼の政治とは、経済の拡大に順応して金銭収入を財政の軸に据え、大商人を優遇しながら、財政再建と民営化を同時並行で推し進めたと見るのが妥当であろう。

こうした一連の施策の結果、事業委託によって「中抜き」し放題となった大商人の景気は良くなったものの、むりやり「手数料ビジネス」に組み込まれた地方は貧困の極みに達し、全国で行方不明者140万人という荒廃が起こった。

都市部でも労働人口の過剰供給から浮浪者が増加し、需要高騰による物価上昇に伴って中小の商工業者の破産が相次ぎ、その日暮らしの非正規雇用者の数が激増する。

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