「財政再建と減税の両立」に成功した「最強の宰相」松平定信 それでもなぜ、彼は江戸の庶民に嫌われたのか
「中抜き」が横行した結果、税収は思ったほど上がらず、田沼政権末期には幕府の準備金はほとんど底を突き、次年度の支出支払いが不可能となった上、さらに浅草に貯蔵されていた緊急用の米穀を全て金に換えていたため、「天明の大飢饉」の被害を甚大化させた。
つまり、幕府が財政再建のためになりふりかまわない富の集積に走った結果、全国的な経済格差が激しくなり、国家の枠組みそのものが崩れ始めたのである。
松平定信の「中間層」保護育成政策
田沼と癒着した大商人は役者や遊女のパトロンとなり、彼らが利用する高級料理屋や出版業者にも大金が流れるが、いわゆる「トリクルダウン」は起こらない。
頽廃的になっていった一般大衆は、官能を刺激する芸能や料理などで一時的な昂揚を体験し、社会批判を面白おかしく行うメディアに同調して鬱憤を晴らす。
金回りの良い富裕社会に足を置きながら、一方で貧困に苦しむ大衆の代弁者を自認する。それが蔦屋重三郎の守ろうとした「田沼の風」であった。
これに対し、幕府に見切りをつけた地方の諸大名は、独自の藩政改革を実行し、その波は全国に波及して地方の独立性を強めていく。こうして登場したのが松平定信であった。
定信の行った「寛政の改革」はこの文脈で考えなければならない。つまり、定信が目指したのは、格差社会の解消と地方の再生による「中間層の保護育成」であり、それに必要な各方面の政策が展開されたのである。
寛政の改革は莫大な内容が多岐にわたっているため、整理しつつ理解する必要がある。
まず行われたのは、食料備蓄体制と国民所得上昇をねらった「囲米」「囲籾」「七分積金」である。「囲米」「囲籾」とは幕府から提供された米穀を原資とし、低利貸付によって貧困に苦しむ人々に供給するものである。
これは低利であることから返済が容易であり、回収分も貸付に回すことで、長期的に貯蔵量を増やしつつ、米余りによる市場価格の変動を抑制することが可能である。
一方で、余剰分の米を市場で売却して金銭に換え、設備投資や運営費を賄うこともでき、独立した経営を可能とする。これにより、緊急時の食糧供給はもちろんのこと、余剰金貸付を通じた農民や中小事業者の保護育成を図るのである。
この結果、全国で40万石にものぼる食料備蓄体制が整った。
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