「財政再建と減税の両立」に成功した「最強の宰相」松平定信 それでもなぜ、彼は江戸の庶民に嫌われたのか
大都市江戸は農民がほとんどいないため、独自のシステムがつくられた。それが「七分積金」である。
これは江戸に存在する1600余りの「町」ごとの予算を37項目にわたって整理させ、浮いた資金の7割を積み立てに回し、2割を還付、1割をその他予備費に回すというものである。
積立金は低利貸付によって資産運用され、中小事業者支援を筆頭に、独居老人や寡婦といった社会的弱者の生活支援に充てられた。これも長期運用益を米の買い付けに回し、江戸の食料備蓄体制を完成させた。
定信は「七分積金」を庶民の資産と定義して幕府が手をつけることを禁じたため、幕末まで約170万両(8000億円)に達し、渋沢栄一(1840~1931年)が切り崩して近代化の資金とするまで、江戸の庶民金融を支え続けたのである。
財政再建と減税の両立に成功
食料備蓄体制と国民所得上昇を合体させた定信の経済政策は、いきおい中小事業者を活気づけることとなり、また農村の生活再建を推し進める結果となった。
これに連動して定信は、田沼が行おうとした「公金貸付」を行うが、田沼が増税によって全国の庶民から徴収した金を諸大名に貸し付けようとしたのに対し、定信は田沼と癒着していなかった大商人に資金を拠出させ、それを低利で大規模に貸し付けつつ、利益を全て公共事業に投下することとした。
こうした金融政策を背景として、関東近郊を起点として大規模工場を建設させ、農業と商業、工業がバランス良く整った農村再生を目指すのである。
今も残る野田(現・千葉県)の濃口醤油、流山(現・千葉県)の本みりんなどは、この時発明されたものである。
また、地方から都市に流れる人口が減少し、相互につながる地方経済圏が生まれていった。
経済政策の総仕上げとして、定信は業務の引き継ぎやマニュアル化を徹底し、予算制度を細密化した。
かくして新規増税を行うどころか事実上の減税と財政出動による経済復興に成功し、田沼時代に底を突いた幕府の準備金を100万両まで増やすことに成功したのである。
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