大怪我で20日間意識不明の事態に追い込まれた私が、「死後の4つの可能性」を古典に学んでみたら、人生で大切なことが見えてきた
だから、臨死体験は主観的なものだという考え方には共感できるのだ。
長い人類の思想をまとめて説明しよう
しかし、それはともかく、「死のあとにはなにがあるのか」という問題も純粋に気になるところではある。確認することは不可能なので推測するしかないが、時間の流れを基準として考えた場合、次のような可能性が考えられるのではないかと著者は推測している。
いうまでもなく、死ぬことが「完全な終わり」だという観点。死んだあとには人の意識と精神は完全消滅し、“部屋の電気が突然消えるような”「無」の状態になるという考え方だ。現代社会では一般的な認識であろうし、私も「無になって当然」だと思っている(もちろん人によって思いは異なるだろうが)。
このような可能性の前提としてあるのは、唯物論的な世界観だ。唯物論によれば、身体とは別のものとしての魂は存在せず、精神は脳が特定の条件下でつくり出したひとつの現象にすぎないのである。
死によって物質的な条件が消えてなくなれば、精神もまた消滅する。こうした観点は、輪廻や死後世界など“死のあと”に関する宗教的な意見を否定するものでもある。
とはいえ唯物論的な観点は、死後世界や輪廻を否定する根拠として十分ではないと著者は述べている。論理的に考えると、輪廻や永劫回帰を認めるようにも見えるというのがその理由だ。
2つ目の可能性として挙げられているのは、「死んだあとも生前と同じように時間が流れ続ける」というもの。身体の死とは関係なく、魂や精神は消滅することがないという考え方だ。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など唯一神を信仰する宗教で用いられる観点である。
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