しかも、こういうマヌケ発言は、(いわゆる)インテリや、(いわゆる)社会的成功者や、(いわゆる)文化人や、(いわゆる)一芸に秀でた人の口から出ることが多いので困りものです。先日も、ある有名画家の個展を訪れて、私の新刊書を手渡したところ、それをぱらぱらめくりながら、「みんなもっと哲学をしたら、社会はもっとよくなるのに」と彼がほそっと呟いた。一瞬、弾丸を浴びたようで、「はぁ?」と思ったのですが、「いいえ、社会ははるかに悪くなると思いますよ」と答えました。
私がなぜこうしたマヌケ発言に対してこれほど神経を尖らせるのかというと、私が大学に入り、「法学部に進むのをやめて哲学をしたい」と告白したとき、両親姉妹をはじめとして、叔父叔母や高校の先生方、法学部の教授たちなど、周囲の大人たちがこぞって反対したという「苦い体験」にもよります。そんなに哲学が「生きるうえで必要」なら、これはいったいどうしたことでしょうか?
そして、たいそう興味深いことに、大人たちの反対の理由は、「哲学じゃメシが食えない!」とか、「哲学をして生きていけると思っているのか!」とか「哲学をするとまともな人間にはなれない!」とか、はたまた(母のように)「哲学をすると自殺する!」という類、すなわち「哲学をすると生きていけない」という理由だったのですから。
多くの人が「錯覚」に陥っている
この見事なほどの「意見の対立」はどうしたことでしょうか? もし、哲学が「人間として最も重要なこと」、いやそうは言わないまでも「誰にとっても必要なこと」なら、なんで大人たちは、こんなに必要なことに身を捧げることを厭がるのでしょうか? と考え進めると、どうも、「哲学をすることに反対する」大人たちの反応のほうが正しくて、「哲学は誰にとっても必要なことだ」と語る人は間違っていると結論づけたくなる。
というのは、青年が哲学をすることを止める人も、「哲学は万人に必要である」とお説教する人も、哲学とは何かを知らないことにかけては同じ穴のムジナなのですが、前者は必死の思いで息子や甥や教え子を止めようとしているのに対し、後者は無責任にもただ気軽にそう語っているだけだからです。前者のほうがずっと真剣であって、私の「心を打つ」のです。
そして、数々のめぐり合わせにより難破船より危険な哲学に関わりながら沈没せずに50年間やってきてあらためて思うことは、かつて私に反対した人々の「哲学への態度」は正しかったということ、そして哲学はほとんどの人にとってまったく役に立たず、なくても何の差しさわりもなく、それどころか、場合によってあることで多大な害を及ぼすということです。
先ほどの画家の科白に話を戻しますと、私は絶対に「みんなもっと油絵を描けば社会はもっとよくなるのに」とは言わないでしょうし、ほとんどの人はそういう言葉を期待しないでしょうし、そう語る人もまあいないだろう、ということです。
すなわち、多くの人が錯覚に陥っていますが、哲学とは、油絵や彫刻やピアノ演奏などと同じく、ある特殊技能というより特殊体質の人にとってのみ、それを続けること、できればそれを職業とすることに、意味(価値)があるのであって、ほとんどの人にとって、油絵を描くことやピアノを弾くことが全然必要ではないように、哲学をすることは必要ないのです。
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