《8月15日には米軍の最後の空襲もあったのに…》日本の終戦記念日は、なぜ8月15日になったのか 戦後80年が経ったからこそできる「慰霊」を考える
中国は、ミズーリ号で文書に調印した代表は当時の国民党政府でしたが、その後に成立した中華人民共和国も、9月3日を中華民国と同様に抗日戦争勝利記念日とし、2015年からは祝日と定めています。
では、日本はどうでしょうか。
日本における「終戦」はいつか
戦前を代表するジャーナリストであり、戦後に首相も務めた石橋湛山はポツダム宣言を受諾した8月14日を転換点と捉え、1945年8月の『東洋経済新報』の社論の中で、「昭和二〇年八月十四日は実に日本国民の永遠に記念すべき新日本門出の日である」と書いています。
ところが実際には、8月14日は「永遠に記念すべき」日とはなりませんでした。その背景のひとつには、8月14日の夜から15日の未明にかけて、アメリカが日本の数都市に最後の空襲を行ったことがあります。これらの空襲では300名以上の命が奪われました。
つまり、日本にとって戦争は、まだ終わっていなかったのです。
そしてもうひとつの背景として、日本が戦後GHQの占領下に入ったことがあります。GHQの占領下で発行された新聞では、8月14日・15日が取り上げられることはほぼなく、毎年9月2日にマッカーサーによる「日本降伏記念日」声明が掲載されていたのです。
この時期は、国民の中にはもちろん玉音放送の記憶は鮮明にあったにせよ、まだ混乱が続く中で戦争そのものをふりかえる余裕などなかったでしょう。
日本政府が公式に8月15日に焦点を当てはじめたのは、独立を回復した1952年になってからのことでした。そして1955年、戦後10年という節目の時期に、8月15日にメディアでの戦争特集が本格的しました。
この時期に戦争が報道されるようになった背景には、経済復興を含め人々の心身の回復が進んだことがあります。おそらく少しずつではあっても戦争の傷跡から復興していく中で、亡くなった多くの人々を弔う気持ちや、戦争をふりかえる余裕がようやく生じたともいえるでしょう。
このような情勢の中、高度経済成長の最中の1963年、池田勇人内閣の閣議決定により8月15日に「全国戦没者追悼式」の実施が決定され、国家として8月15日に終戦の軸をおく姿勢が示されました。
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