「熊を殺すな!」「可哀想だ!」…北海道でヒグマによる事件が発生→駆除もクレーム殺到。安全圏の遠方からクレームを入れる人々の心理とは?

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「生存すること」が生態系のゲームの勝者

クマの駆除に怒りや悲しみの声を上げる人々は、過激なディープエコロジーの信奉者のように「いかなる理由があっても動物の命を奪ってはならない」という思想に突き動かされているように映る。だが、自然は、人間が作り出した概念などお構いなしに、生態系のゲームに従っているにすぎない。それは「生存すること」である。

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進化生物学者のダン・リスキンは、自身がヒフバエに寄生された原体験を振り返り、「自然は熱帯雨林の美しい写真ではない。それは、寄主から寄生者に、餌動物から捕食者に、そして腐りつつある死骸から腐肉食動物に流れるエネルギーをめぐる戦いよって引き起こされる、生と死のドラマ」だと述べた(ダン・リスキン『母なる自然があなたを殺そうとしている』小山重郎訳、築地書館)。

クマに襲われた人々は、死亡する可能性が高いうえ、生き残っても交通事故と同程度の衝撃によって、顔や頭部が原形をとどめないほどの重傷を負う。だが、「理想化された自然観」はそのような現実を過小評価しようとする。

言うまでもなくわたしたちも生物であり自然の一部であるからこそ、襲撃されたりするのであって、そこには概念では割り切れない諸々の連鎖、緊張関係、そして前述の歴史的な経緯がある。

「かわいそう」「殺すな」という「癒やしとしての自然」というファンタジーに乗っかった大合唱は、皮肉なことに里山に住む人間の安全を無視した非現実的なものでしかない。時間を元に戻せない以上、わたしたちは何かしらの形で自然に手を入れるしかない。自然と人間の二項対立ではなく、相互浸透が不可避な状況とどう付き合っていくかというリアリズムしかないのだ。

それは、正解がない中で「妥協点」を模索し続けるということでもある。歯切れの良い回答が欲しい人々にとっては不満が残るものかもしれないが、そもそも野生動物を含む自然とは、わたしたちにとって都合の良い「癒やし」ではないことを自覚すべきだろう。

真鍋 厚 評論家、著述家

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まなべ・あつし / Atsushi Manabe

1979年、奈良県生まれ。大阪芸術大学大学院修士課程修了。出版社に勤める傍ら評論活動を展開。 単著に『テロリスト・ワールド』(現代書館)、『不寛容という不安』(彩流社)。(写真撮影:長谷部ナオキチ)

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