「お金にこだわりすぎ」 田沼意次が財政再建を急がざるを得なかった江戸幕府の苦しいお金事情とは

田沼時代は“贅沢”な時代?
田沼意次が徳川幕府の側用人・老中となり政策を主導した田沼時代(1767〜1786)は、後の松平定信の寛政改革の時代と比べると、奢侈で贅沢な時代だったと思われがちです。
しかし、意次が老中を辞職した年(天明6年=1786)に生きていた人々の時代認識は、現代の我々とは異なっていました。将軍直属の密偵とも言われる幕府御庭番の1人・梶野平九郎は、江戸市中の様々な風聞を収集し、将軍に報告します。
その報告書には「山師」(投機的な事業で金儲けを企む人)という言葉が散見されるのです(『東京市史稿』産業篇30、東京都、1986年)。
例えば「いよいよ世上一同、山師の様にまかり成り」とか「世中一同に取はからい細かく、山師の体(てい)多く」などのようにです。一億総山師になったと言わんばかりの書き振りでしょう。田沼時代には、山師が跋扈していたというのですが、ではいったい、それはどうしてなのでしょう。
御庭番の平九郎は、倹約令こそ山師がはびこった要因であると報告しています。田沼時代というと、前述のように活気があり、消費生活も華やかとイメージされがちですが、倹約令が出された時代でもあるのです。
幕府は財政悪化を受けて、倹約令を出したのです。小普請(旗本・御家人のうち、家禄3000石以下で無役の者)の植崎九八郎は、意見書の中で「御入用金(幕府の支出)を出さないことを第一の勤めとしているので、諸役人はおのおの互いに争い、御益と称して幕府の収入を少しでも増やすことを御奉公だと思っている。よって、その場その場で取り立てを厳しく行い、その手柄により転役」していると主張しています。
つまり、幕府の役人は、倹約や取り立てに血眼になり、それがうまくできた者は出世しているということです。
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