「お金にこだわりすぎ」 田沼意次が財政再建を急がざるを得なかった江戸幕府の苦しいお金事情とは

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ちなみに、取り立てにより利益を上げようとする者は、先程の「山師」ということもできるでしょう。倹約と利益追求が同時に行われていたと見ることができます。

さて、その田沼時代を主導したのが、意次ですが「大立者にしては一体の仕打ち小さく、金銀の世話事細か過ぎて、とかくこせついて見えます」との批判もありました。要は、お金のことにこだわり過ぎという非難です。

旗本や大名家の財政と、幕府の財政を同列に置いたような財政運営を意次はしていると非難されることもありました。

田沼時代は、商品生産の発展により、貨幣経済が拡大し、大都市を中心にして豊かで華やかな暮らしが営まれていたのは、一面の事実ではあります。しかしその一方で、幕臣(旗本・御家人)や諸藩の藩士は経済的苦境に立つことがありました。

幕府のお金がなくなったワケ

江戸時代の初期は、幕府の財政は非常に豊かでした。天領(幕府直轄領)からの年貢、金銀の鉱山からの収益、外国貿易により、財政は潤っていたのです。

ところが、明暦3年(1657)、江戸で大火が発生し、甚大な被害を与えます。いわゆる明暦の大火です。江戸城や大名屋敷、市街が焼かれ、その再建に多くの金銀が必要でした。元禄時代(1688〜1704)は、5代将軍・徳川綱吉の治世ですが、この頃、物価の上昇、寺社の造営、贅沢などにより、幕府の支出はどんどんと増えていきます。

それにもかかわらず、鉱山は枯渇、貿易は縮小していたので、収入は減っていき、幕府財政は赤字になってしまうのです。幕府の収入は、鉱山収入と貿易収入が減少したことにより、天領(元禄時代には400万石)からの年貢収入が拡大していきます。天領を増やすこと、年貢を増やすことが課題となるのです。

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