元銀行員“異端”の僧侶が語る、700年前の仏教書『歎異抄』に現代人が救われる理由。《誰もが自分の中に「善」も「悪」も抱えている》
『歎異抄』の解説書や『歎異抄』をテーマにした書物には数多くの名著があります。『歎異抄』は単なる宗教書ではなく、「人間の生き方とは何か」「信じるとはどういうことか」という根源的な問いを投げかける哲学書としても読むことができるからでしょう。
この点が、宗教書としてよりも、人生哲学書として多くの読者を引きつけている要因かと思います。西田幾多郎(にしだきたろう)や司馬遼太郎(しばりょうたろう)、遠藤周作(えんどうしゅうさく)など名だたる思想家や文学者にも深く愛読されてきました。
司馬遼太郎は「無人島に本を一冊持っていくとしたら『歎異抄』だ」と言うほど、この書に深い感銘を受けたといわれています。
いわんや悪人をや
『歎異抄』をあまり御存知ない方だとしても、次の一節は聞いたことのある方は多いのではないでしょうか。
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
これは、「善人でさえ阿弥陀様の救いによって往生できるのだから、ましてや悪人はなおさら救われる」という意味です。
親鸞聖人の教えの中でも最も根本的なものの一つ「悪人正機(あくにんしょうき)」の一説です。
この言葉をぱっと読んだときには、「善人より悪人のほうが救われる」と思われがちですが、少し違います。
ここでいう「悪人」とは、「自分の力ではどうにもならない人」という意味であり、「欲深く、煩悩(ぼんのう)にまみれた人」「自らの罪深さを自覚する人」というような意味です。
『歎異抄』の第三条にこのような言葉があります。
「善人は、自分の中にある『悪』に気づかない人です。そういう人でも往生できるのであれば、自分の『悪』を自覚して、それとともに生きるしかない悪人は、言うまでもなく往生できるのです」
「善人は、『何かにすがらなきゃ生きていけない』というような、いつも息苦しく周囲から追い詰められたような、いやな気持ちをあまりもっていないのです。
常に余裕をもって、世の中のためになる何か善いことをして、その見返りで、たぶん往生できるんじゃないかって思っているものなのでしょう。
でも、それではダメなのです。そういう計算ずくで往生しようとしている人間たちを救うことは阿弥陀様にだってできないのではないでしょうか」
ここでいう、「善人」とは、「自分の中にある悪に気づかない人」なのです。
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