元銀行員“異端”の僧侶が語る、700年前の仏教書『歎異抄』に現代人が救われる理由。《誰もが自分の中に「善」も「悪」も抱えている》
そして私自身、「人のため、社会のために役に立つ人になりたい」と思って就職した銀行の仕事ですが、仕事をするうえで、「疑問」や「うしろめたさ」を感じることが多々あったのも事実です。
まったくもって「善人」とは言えないわけです。
より良く、より正しく、あるべき姿を求め、計画し、実践しようとしても、できる人など、ほとんどいません。
できるように思えても、どこかの時点で、無意識の誘惑に負けていたり、集中がそがれて、遊んでしまったり。
できないのは自分のせいなのに、それを他人のせいにしてしまったり、できている人を妬んだり……。
そんなことの連続が私たち人間なのではないでしょうか。
そのうえ、私たちは「命を殺すのはダメだ」という教えを受けながら、しかし、他の命を食べて生きています。
生きていくために、さまざまな生き物をいただいているのです。
その意味でも、生きていくためには、悪を免れえないのです。善い行いをして、厳しい修行に耐えているから、極楽に行けるのではないのです。
ついつい怠けたり、苦しまぎれにささいな嘘をついたり、煩悩から逃れられない私たち。そんな私たちでも、極楽浄土に行ける、往生成仏できる。
そう説いたのが親鸞聖人であり、浄土真宗の教えなのです。
司馬遼太郎らに愛読された『歎異抄』
『歎異抄(たんにしょう)』は、鎌倉時代の浄土真宗の僧・唯円(ゆいえん)(1222〜1289、※生没年は諸説あり)によってその師である親鸞(しんらん)聖人(1173〜1263)の教えを正しく記録し、後世に伝えるために著したものとされています。
親鸞聖人は、浄土真宗を開いた人物です。戦乱や天災の相次いだ平安末期に京都に生まれ、比叡山で修行をしますが、やがて「念仏ひとつで、どんな人でも救われる」と説いた浄土宗の宗祖・法然(ほうねん)聖人(1133〜1212)に弟子入りします。
その後、法然聖人が亡くなってからも、念仏の教えを熱心に説き、やがて浄土真宗を開くに至るのです。
「歎異」という言葉は、「異(こと)なるを歎(なげ)く」と読むことができます。よって「正しい教えとは異なる解釈を嘆く」という意味をもちます。つまり、親鸞聖人の教えが誤って伝えられることを嘆いた直弟子の唯円が書き残した言葉になります。
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