1970年代末の大ヒット曲、日本人歌手もカバーした『息子よ』で一世を風靡したフィリピンのフレディ・アギラ氏逝く

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テレビやラジオが反政府集会を放送しなかった当時、その場に行かなければ聞くことのできない禁止歌「バヤンコ」をフレディが歌うと、参加者の高揚と一体感は頂点に達した。マニラ中心部のルネタ公園には時に100万人の人が詰めかけた。

「バヤンコ」は反政府集会の定番テーマソングとなった。

イメルダとのデュエット

「バヤンコ」はフレディの作ではない。アメリカ植民地時代の1928年に地元の作曲家が独立運動を盛りたてる狙いを込めて作曲し、1941年からの日本占領時代にも抵抗の歌として歌い継がれていた。

現大統領ボンボン・マルコスの父の大統領(シニア)が政権延命を狙って1972年に戒厳令を布告し、反対派を弾圧して言論封圧を始めると、左派の学生らが愛唱した「バヤンコ」も放送や演奏が禁じられた。

子どものころから「バヤンコ」を愛唱していたフレディは当時、愛国的な歌を作りたいともがいていたが、何度試みてもこの曲を超えるものができない。

「それならいっそ、この歌を録音しよう」と思い立ってマルコス政権幹部に掛け合った。1980年に許可され、ヒットチャートを駆け上がった。

独裁政権下でなぜ「バヤンコ」の録音や発売が許されたのか。フレディが当時、絶大な権力を誇っていた大統領夫人のイメルダ・マルコスのお気に入りだったからだ。

イメルダは「母国語で自作を歌うフレディは国の誇り」と称賛し、2カ月に1度はマラカニアン宮殿に招いて外国からの賓客らの前で演奏させていた。フレディは時にイメルダとデュエットもした。

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