1970年代末の大ヒット曲、日本人歌手もカバーした『息子よ』で一世を風靡したフィリピンのフレディ・アギラ氏逝く

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その夜、フレディは中心部にあるライブハウスのステージに立った。街の「息子」が久しぶりに里帰りし「息子よ」(アナック)を歌う。1、2階とも満席で、階段は立ち見客であふれ熱気に包まれていた。

オロンガポが全盛だった1970年代、クラブやライブハウスはフィリピン語の歌を禁じていた。客は米兵。店主らはアメリカのロックやブルースを歌うよう歌い手に命じた。そんな時に「アナック」が世界的にヒットし、それまで二流扱いだったフィリピン語の歌がようやく市民権を得た。

マニラの繁華街でフレディが経営するライブハウス「カ・フレディーズ」の楽屋には出演者へのメッセージが掲げられていた。

「オリジナルを歌え。フィリピンの曲をやってくれ」

激しい毀誉褒貶、融通無碍だったが…

世界各国で音楽関係の賞を受賞していたフレディだが、晩年まで酒場の小さなステージに立ち続けた。客との掛け合いを楽しみながらリクエストされた曲を歌う。息子がギターでバックを支えていた。

私とオロンガポを旅した1年後の2013年11月、60歳のフレディはムスリムに改宗して16歳の少女と結婚した。「アナック」や「マグダレーナ」の歌詞に酔った世代に強い違和感を与え、物議を醸した。

毀誉褒貶(きよほうへん)が激しく融通無碍(ゆうずうむげ)なフレディだが、母語で曲を作り、「オリジナル」を歌うことへのこだわりは一貫していた。フィリピンの音楽界に遺した足跡の大きさは計り知れない。冥福を祈る。

柴田 直治 ジャーナリスト、アジア政経社会フォーラム(APES)共同代表

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しばた・なおじ

ジャーナリスト。元朝日新聞記者(論説副主幹、アジア総局長、マニラ支局長、大阪・東京社会部デスクなどを歴任)、近畿大学教授などを経る。著書に「ルポ フィリピンの民主主義―ピープルパワー革命からの40年」、「バンコク燃ゆ タックシンと『タイ式』民主主義」。

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