シンガポールからカーストの国インドへ--在インド中小企業経営者・小和田宏明氏に聞く
--その頃は、華僑ばかりだった。
中国人(華僑)たちのなかには、「昭南島(日本軍政下のシンガポール呼称)」時代の記憶、イメージが残っていました。当時は、若い日本人がいなかったから、どこに行っても珍しがられました。日本人も200人くらいしかいなかった。商社や海運会社の駐在員がほとんどで、学生は全然いなかった。だから、日本人の留学生というだけでモテました(笑)。よくいろんなところにいって、おごってもらったりしていました。
時事通信の支局でバイトをして、記事の翻訳の手伝いとかをしていました。当時は写真専門通信社PANA通信のなかにありました。で学校を卒業するときに私がやっていた現地紙の翻訳事業をPANA通信に売却して、それを10年後くらいに買い取ったのが某アジア情報WebサイトのN社です。
--なるほど、おもしろいですね。
観光会社、今でいえば旅行代理店みたいなことをやって、ホテルの企画をはじめました。当時のシンガポールは観光するような国じゃなかった。資金集めして、企画して、ゼロから立ち上げるのが好きなんですよ。日本ビューホテルのオーナー社長にかわいがられて一緒にやるようになり、観光ホテルの開発、企画に携わっていました。
--観光立国化に深く関わっていたわけですね。
マレーシア政府の観光戦略の会議なんかによく呼ばれて、首相のマハティールと何度か意見交換したことがあります。日系企業が観光ホテルを東南アジアでどんどん建設していた当時は、クアラルンプール、ジャカルタ、バンコク、いろいろ飛び回っていました。ゴルフ場とかレジャー施設とかですね。
でも97年に当時関わっていたプロジェクトで融資を受けていたはノンバンクがおかしくなったんですね。タイの通貨危機につかまってしまいました。プロジェクト全体で100億くらいの負債があったと思います。「自分の持っているモノ全部出しますから許してください」って何とかしてもらいました。責任を取るには、そうするしかないですから。