恋川春町に、朋誠堂喜三二…看板作家たちが次々去り、ピンチに陥った《蔦屋重三郎》のその後

看板作家が次々いなくなる
蔦屋から幕府政治批判・風刺の黄表紙を刊行した戯作者・朋誠堂喜三二と恋川春町。
『文武二道万石通』の著者・喜三二は、本名を平沢常富と言い、秋田久保田藩の留守居役にまでなった武士でした。藩主の佐竹氏から威圧を受けたという喜三二は、戯作の筆を折り、以後は、狂歌・狂詩を詠むという無難な道に進みます。
春町は本名を倉橋格(通称・寿平)と言い、駿河小島藩(1万石)松平氏に仕える武士。『悦贔屓蝦夷押領』や『鸚鵡返文武二道』の著者ですが、老中・松平定信から呼び出しを受けるも、病を理由としてこれを拒否。それから約3カ月後の寛政元年(1789)7月に死去してしまいます。病死でしたが、余りにも突然の死ということで、自死説も流布したほどです。
蔦屋から書籍を刊行し、大ヒットを飛ばした戯作者たちが、筆を折る、あるいは死去してしまう。蔦屋重三郎にとって、交流のあった彼らに起きた出来事は衝撃だったでしょう。
しかし、書籍の出版という「商売」は続けていかねばなりません。そんな重三郎が頼みにしたのが、浮世絵師・戯作者の山東京伝だったと言われています。
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