恋川春町に、朋誠堂喜三二…看板作家たちが次々去り、ピンチに陥った《蔦屋重三郎》のその後

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京伝というのは戯作号で、本名は、岩瀬醒。宝暦11年(1761)、江戸深川の質屋・伊勢屋伝左衛門の長男として生まれました。

京伝は若くして、浮世絵に関心を持ち、浮世絵師の北尾重政の弟子となります。それに伴い、京伝は「北尾政演」を名乗り、作画活動を行います。

京伝の才能は浮世絵だけにとどまらず、黄表紙・洒落本・狂歌の執筆・制作にまで及びました。1778年には、黄表紙『開帳利益札遊合』に挿絵を描き、デビューした京伝。その翌年以降、京伝は、鶴屋・松村・いせ次・岩戸屋といった有名・老舗版元から書籍を刊行しています。それだけ、京伝に才能があり、その才能に多くの版元が目を付けたということです。

町人出身のマルチ文化人・京伝の誕生です。その京伝に重三郎が目を付けないはずはなく、安永9年(1780)頃、2人は接点を持ったと言われています。

ところが、その頃にはまだ鶴屋と京伝との関係のほうが強かったようで、鶴屋は毎年のように、京伝の黄表紙を刊行していました。京伝は鶴屋の「準専属作家」と評される状態だったのです。

山東京伝の才能を買っていた蔦重

一方、重三郎は、当初、浮世絵師としての京伝の才能を買っていたようです。黄表紙などの執筆よりも、絵を多く描かせていたことから、そのことがわかります。

重三郎も、戯作者としての京伝の資質はある程度は理解していたけれども、鶴屋らが戯作で京伝を売り出すならば、うち(蔦屋)は作画(浮世絵)で売り出すという「差別化」の想いもあったのかもしれません。

大河ドラマ べらぼう 蔦屋重三郎 山東京伝
山東京伝ゆかりの回向院(写真: Caito / PIXTA)

天明2年(1782)、京伝は『御存商売物』という黄表紙を鶴屋から刊行しますが、これが、天明期を代表する文人・大田南畝に認められます。これにより、京伝は戯作者として、より注目を集めるようになります。

一方で、同年に重三郎と京伝は、吉原で遊んだりもしています。そして、天明5年(1785)、京伝は、蔦屋から黄表紙を刊行しています。『江戸生艶気樺焼』は、その1つであり、同書は「黄表紙の代表的傑作」と現代においても評されています。

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