また重政は面倒見がよいタイプだったようだ。一流のプレイヤーでありながら、多くの弟子を育てた。なかには蔦重と仕事上のパートナーとなった者もいる。
浮世絵師の北尾政美(まさよし)が、その一人だ。畳職人の子として生まれた政美は、安永5(1776)年頃に重政の門弟となり、絵の修行に励んだ。蔦重の耕書堂では、20作以上の黄表紙で挿絵を手がけることとなった。寛政期からは「鍬形蕙斎」(くわがた・けいさい)と名乗り、津山藩の御用絵師として、肉筆浮世絵に専念するようになる。
また、戯作者で浮世絵師の山東京伝(さんとう・きょうでん)も、重政のもとで学んだ。やがて蔦重の耕書堂から『江戸生艶気樺焼』(えどうまれうわきのかばやき)や『明矣七変目景清』(あくしちへんめ かげきよ)など話題作を次々と刊行している。

ヒットメーカーとして躍進したが、やや目立ちすぎてしまったらしい。老中・松平定信による「寛政の改革」が行われると、書いた洒落本が出版規制に触れるとして、手錠をかけられて自宅での謹慎処分を受けている。
本の挿絵を描き続けた北尾重政
ユニークな作品と個性あふれる弟子を残した北尾重政。面白いのが、弟子たちが浮世絵を描いてどんどん活躍するなかで、自身はどちらかというと若手の仕事である本の挿絵を中心に描き続けた、ということだ。本屋に生まれた重政は出版人として、本の絵や書を担当することに生きがいを感じていたようだ。
駆け出しの蔦重に協力を惜しまなかったのも、小さい版元が力をつけていくプロセスに、自身が深く携わりたかったからではないだろうか。
本での仕事にこだわった重政は、82歳でその生涯を閉じる。「狂歌三大家」の一人である大田南畝(おおた なんぽ)は重政について、こんなふうに評したという。
「近代の名人なり、重政没してからというもの、浮世絵はみすぼらしいものとなった」
【参考文献】
松木寛『新版 蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』(講談社学術文庫)
鈴木俊幸『蔦屋重三郎』 (平凡社新書)
鈴木俊幸監修『蔦屋重三郎 時代を変えた江戸の本屋』(平凡社)
倉本初夫『探訪・蔦屋重三郎 天明文化をリードした出版人』(れんが書房新社)
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