売れっ子絵師の「北尾重政」が駆け出しだった《蔦屋重三郎》を助けた理由 優秀な弟子たちも蔦重と手を組んだ

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安永5(1776)年には、色彩豊かな豪華な錦絵本『青楼美人合姿鏡』(せいろうびじんあわせすがたかがみ)を蔦重がリリース。このときも、葛飾北斎の師匠としても知られる勝川春章(かつかわ・しゅんしょう)との共作というかたちで、重政も絵を担当している。

さらに、蔦重は「往来物」(おうらいもの)という子どもが手習いで用いる教科書も手がけることで経営基盤をつくっていくが、この往来物はほとんどが、書も得意とした重政が書いたのではないか……という説もある。それくらい2人は、出会った当初から強く結びついていた。

しかし、2人が出会った頃、蔦重は出版人としては駆け出しにすぎない。一方の重政はすでに絵師として実績があり、一派を立てるほどだった。

それにもかかわらず、重政が蔦重に協力を惜しまなかったのは、なぜなのだろうか。

書物問屋の長男として生まれた

重政は元文4(1739)年に須原屋三郎兵衛の長男として生まれた。NHK大河ドラマ「べらぼう」の視聴者ならば、「須原屋」と聞いてピンときたことだろう。

ドラマでは、里見浩太朗が須原屋市兵衛(すはらや・いちべえ)を演じている。市兵衛は、江戸における出版業界の最大手・須原屋茂兵衛から暖簾分けをされて、書物問屋を開業。杉田玄白らが翻訳した西洋医学の翻訳書である『解体新書』や、本草学家・平賀源内が作成した『物類品隲』(ぶつるいひんしつ)などの学術書を刊行した。

重政の父・須原屋三郎兵衛もまた、須原屋市兵衛と同じように、須原屋茂兵衛から暖簾分けされている。つまり、重政は本屋の息子として生まれて、本に囲まれて育ち、絵や書、俳諧において才を育むこととなった。

明和2(1765)年に絵師として活動を始めた重政は、美人画や本の挿絵を描くようになる。蔦重のプロデュースで『一目千本』や『青楼美人合姿鏡』を手がけたのは、それから数年後のことである。

天明6(1786)年には、蔦重のもとで狂歌絵本『絵本八十宇治川』(えほんやそうじがわ)や『絵本吾妻抉』(えほんあずまからげ)を刊行。2人は出会って以来、名コンビとして互いに刺激を与え合いながら、数多くの本を世に送り出した。

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