「ファミコンの父」任天堂の山内溥が"50代で成功"を掴んだ背景 食品業界やタクシー、レジャー施設など実は失敗の連続だった

ファミコン(写真:EASTNEWS/アフロ)
偉業を成し遂げた偉人たちのなかには、人生の後半で成功した「遅咲き」の人が少なくありません。任天堂を生まれ変わらせた3代目社長の山内溥もまた、ファミリーコンピュータでヒットを飛ばしたのは、50代のときで、それまでは失敗ばかり。会社を破産寸前までに追い込んだことさえあります。
公私ともに困難に直面しやすく「ミッドライフ・クライシス」(中年期の危機)と呼ばれる50代で、山内はなぜ大きく飛躍できたのでしょうか。著述家の真山知幸氏の新著『大器晩成列伝 遅咲きの人生には共通点があった!』から一部抜粋・再構成し、その「七転八起」の精神について紹介しましょう。
50代でゲーム事業に参入
私も小学生の頃に夢中になった「ファミコン」「スーパーファミコン」を世に送り出した任天堂。今は家庭用ゲーム機「スイッチ」で、私の子どもたちの心をとらえて離しません。時代を超えてムーブメントをつくり続ける。これは当たり前のことではないでしょう。
任天堂は、今でこそ世界でも有数のゲーム機器、ゲームソフトメーカーとして知られていますが、もともとは「花札」や「かるた」の製造を行っていました。そこから事業の大転換を図ったのが、任天堂の3代目社長を務めた山内溥です。
山内は22歳の若さで家業を継いで社長に就任。従来のビジネスモデルから脱却を図るべく、試行錯誤を繰り返しました。ゲーム事業に参入したのは、山内が50代のときのことです。
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