2026年大河『豊臣兄弟!』主人公・豊臣秀長。《兄の秀吉を強力にサポート》「鳥取の飢え殺し」「三木の干殺し」の地獄絵図
三木城・鳥取城の戦い
但馬国を平定した秀吉と秀長でしたが、今度は播磨(はりま)三木城の別所長治も織田政権に反旗を翻します。
どうやら、かつて都を追われ、この頃には毛利家の庇護を受けていた足利義昭が、別所家に働きかけていたようなんですね。本当に義昭は往生際が悪いなと思いますけども、秀吉や織田政権に不信感を持っていた別所家の人々は、その誘いにまんまと乗ってしまったわけです。京を追われたとはいえ、まだまだ将軍の威光にも意味があったということでしょうか。
天正6年(1578)3月下旬、秀吉は三木城の包囲を始めます。この三木城の戦いにも秀長は参加していたと考えられています。
秀吉は周囲に多数の付け城(つけじろ、敵の城を攻めるために築いた城または砦)を築城し、三木城を完全に包囲します。城への兵糧(ひょうろう)搬入路を断って兵糧攻めにしました。
三木城の抵抗は凄まじく、この包囲戦はなんと約2年も続きました。外部からの食糧が手に入らない状態で2年間ですから、本当につらかったと思います。
本来食用ではない牛馬を食い、草を食い、果ては城の土壁や死人の肉まで口にしたという三木城内の凄惨さは『三木の干殺し』と呼ばれ、今でも語り継がれています。
現代は物価高で、食料品の値上げも相次ぎ、庶民の生活が苦しくなっている!なんてことが日々ニュースで叫ばれていますが、この時代のことを思うと、食料にありつけるだけまだありがたいなと、私は思ってしまいますね。
ちなみに、この間に摂津の荒木村重が織田家から離反し、秀吉はその対応にも追われています。説得に向かった黒田官兵衛が村重に捕らえられ、有岡城に幽閉されてしまった話は有名です。
天正8年(1580)正月、別所長治はついに降伏して切腹。三木城は開城し、秀吉は播磨国・但馬国、この両国を平定することに成功しました。
そして、播磨国には秀吉がいますから、但馬国を秀長と、元浅井家臣の武将・宮部継潤が城代として支配するという形がとられました。天正9年(1581)には、毛利方の吉川経家が守る因幡国鳥取城も攻略し、宮部継潤が城代として配置されます。


















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