2026年大河『豊臣兄弟!』主人公・豊臣秀長。《兄の秀吉を強力にサポート》「鳥取の飢え殺し」「三木の干殺し」の地獄絵図

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

この鳥取城攻めでは、秀吉は商人たちから高値で兵糧を買い占め、鳥取城方が兵糧を購入できないようにした、と言われています。その結果、多くの城兵が餓死したことから『鳥取の飢え殺し』と呼ばれる悲惨な戦いになったと伝わります。

これらの壮絶な戦いを経て、播磨、但馬、因幡の3カ国を羽柴家が支配するという形になったわけですね。もちろん秀吉というのは信長の家臣ではあるんですが、ほとんどその支配に関しては信長から委任されてますので、信長政権下における「大名」という考え方をしていいと思います。羽柴家は織田譜代の大名となったわけです。

で、この3カ国のうち、播磨国は秀吉、因幡国は宮部継潤、但馬国を秀長が基本的には支配していくという形がとられました。この間、秀長は竹田城に居城しています。

但馬国の支配に関しては、秀吉から人事の命令とかあったりはするんですけども、基本的には領国支配、そして軍事活動も秀長が一手に担っていくということになっています。あくまで秀吉の城代という形ではありますが、秀長は一国一城の主という立場になってるわけですね。

秀長は秀吉の弟という立場だけでなく、織田譜代大名羽柴家という、大名家のナンバー2、執政者というポジションを確立していくことになるわけです。

当然それには秀長が秀吉の弟であるという、その血縁関係も大きかったでしょうけども、もちろん本人の実力、秀吉の期待に応えてきたというところは大きかったんじゃないでしょうか。

かくして天正10年(1582)、秀吉に従い備中攻めに出陣します。かの有名な備中高松城の水攻めが行われた戦いです。この備中高松城攻めの最中、ついに本能寺の変が起きるわけでございます。

中国地方での戦い
中国地方での戦い(画像:『マンガと図解と地図でわかる!豊臣秀長徹底解説』より)

竹田城について

その壮大な姿を留める竹田城跡は、単なる城郭遺跡を超えた存在として、現在でも多くの人々を魅了し続けています。

標高353.7mの古城山(兵庫県朝来市和田山町)の山頂に築かれたこの山城は、秋から春にかけて見られる雲海に包まれた幻想的な姿から「天空の城」と称され、全国的にその名を知られています。

また、城全体の縄張りが虎が臥せているように見えることから「虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)」の異名も持ち、その勇壮な姿は「日本のマチュピチュ」とも形容されることがあります。

竹田城の歴史は古く、応仁の乱(1467〜1477)において、西軍総大将・但馬守護の山名宗全が播磨の宿敵・赤松氏への備えとして城を築かせたのが始まりです。

ただし、当時の城は、現在我々が目にするような総石垣の城郭ではありません。

山肌を削り、土を盛り上げた「土塁」や、尾根を断ち切る「堀切」を多用した、防御に特化した「中世の山城」だったと考えられています。

次ページ地獄の三木城攻めと羽柴兄弟の躍進
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事