「ファミコンの父」任天堂の山内溥が"50代で成功"を掴んだ背景 食品業界やタクシー、レジャー施設など実は失敗の連続だった
そうかと思えば、インスタント食品に注目し、「お湯を注いで3分待つ」というインスタントラーメンのごはんバージョンとして、「インスタントライス」を開発。
続いて、「ふぐ茶漬け」、ふりかけの「ディズニーフリッカー」、「ポパイラーメン」などを発売しましたが、いずれも手痛い失敗に終わっています。
売上の鈍化に焦りを感じていた
タクシー業界や食品業界など、いきなり他業界に殴り込みをかけるとは大胆ですが、山内には「従来の事業から脱却しなければ未来はない」という危機感がありました。
というのも、任天堂は「ディズニー・トランプ」で売上を大きく伸ばし、上場まで果たしたものの、上場2年目には売上が鈍化しはじめていました。キャラクター人気に依存したやり方では限界がある……それが山内の実感でした。
「ヒットははかないものだとつくづく感じた。ヒットしているうちに善後策を考えておかないと痛い目に遭う」
つまり経営者に安息の日々はなく、絶えず「次の一手」を打ち続けなければならない、ということです。
・44歳――大型レジャー施設に社運をかけて大赤字に
異業種への参入は難しいと、山内はアイデア玩具に活路を見出します。
玩具1号となったのは、「ウルトラハンド」。伸び縮みするマジックハンド式のおもちゃで、これが120万個以上を売る大ヒット商品となりました。
さらに、家庭用ピッチングマシン「ウルトラマシン」など、アイデア玩具を次々と開発。売上を回復させると、山内の目はエレクトロニクス産業へと向けられます。
「うちはよそのメーカーと同じことをやるくらいなら、やらないほうがましだという考え方だ。だからエレクトロニクスに乗り出した。しかし、それもよく考えてみると、オモチャ業界でよそと違うことをしようと思うと、そこしか残っていなかったということなんです」
昭和45(1970)年、山内が42歳のときに、任天堂は記念すべきエレクトロニクス第1弾として、「光線銃」を発売。もっぱら通信分野で使われていた「光」を玩具に用いた光線銃は、人工衛星から発想したそうです。
独創性を重視した山内らしい画期的な「新しい時代」の玩具でしたが、残念ながら失敗に終わります。売上自体は好調でしたが、生産体制に不備があり、故障品や不良品が続出。利益をほとんど出せずに終わりました。
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