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「ファミコンの父」任天堂の山内溥が"50代で成功"を掴んだ背景 食品業界やタクシー、レジャー施設など実は失敗の連続だった

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  • 真山 知幸 伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA)
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他のゲーム機がパソコン用ICを用いるなかで、任天堂は専用ICの開発に成功。絵の細やかさやキャラクターの表情やスピード感など、これまでになかったクオリティを重視しました。

これを真似するには1年は絶対にかかります。あとは、「いかに顧客が手に入れやすい値段に抑えられるか」が鍵となりました。

ファミコンの性能を考えれば、2万円を切るのは至難の業でしたが、山内は大博打に出ます。ICメーカーに300万台という保証台数を提示することで、コストダウンを図ったのです。その結果、1万4800円という、高性能で低価格のゲーム機を実現させることになりました。

もし、ここで「性能が優れているから、それなりの価格で発売しよう」と考えていれば、ファミコンがあれだけの大フィーバーを、いきなり起こすには至らなかったでしょう。

昭和58(1983)年7月15日、ファミコンが満を持して発売されました。性能も価格も、他社には真似できない製品で勝負した結果、発売後半年でファミコンは独走状態に。3年あまりで650万台というメガヒットとなりました。

本体の価格を抑えることにこだわったがゆえに、製造経費を引けば、本体だけの利益はほとんどありませんでした。しかし、ハードさえ浸透させられれば、ソフトで稼ぐことができます。

ゲームはソフトが命で、ハードはソフトの世界を表現するための存在─とまで言った山内は、ソフトへのこだわりをこう語っています。

「ソフトは複雑にしないで、できるだけシンプルにして、誰もが楽しめるものでなければだめです。ゲームをやったことのない人も簡単に参加できるもの。子どもと一緒に遊んでもおもしろいもの 。誰もが楽しめるものでなければ、ゲームビジネスは繁栄しません」

スーパーマリオやポケットモンスターなど不朽の名作は、こんな山内のソフト論から生み出され、今でもなお愛され続けています。

大事なのはビジョンよりも「突破力」

22歳で社長になってから数々の失敗を体験しましたが、山内はそのたびに反省はしても後悔することはなく、挑戦し続けました。

そんなチャレンジ精神が50代にして花開き、他社の追随を許さない独創的な商品を世に送り出し、社会現象を生み出しました。

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