「ファミコンの父」任天堂の山内溥が"50代で成功"を掴んだ背景 食品業界やタクシー、レジャー施設など実は失敗の連続だった
若社長が人生で初めての借金をしてまでの挑戦でしたが、同業者たちの反応はみな一様に冷ややかなものでした。
「花札屋に工場はいらんのや。あんなもん建てて、やっぱりボンやなあ」
そんな批判を受けても、山内は改革の手を緩めることなく、花札の機械化にも挑みました。細かな調節が仕上がりに影響するデリケートな花札は、当時すべてが手づくり。
しかし、「未開の地だからこそ挑む価値がある」と、いつも考えるのが山内でした。毎年、利益の3割を割きながら、花札の手触りや厚さなどを調節。昭和44(1969)年に、満足できる商品を機械で製造することに成功します。他の業者には到底マネできない、差別化を実現させました。
花札の機械化に苦心しながら、山内はまったく別の方向でのチャレンジも行っています。アメリカのディズニー・プロと提携。ミッキー・マウスやドナルド・ダックなどをトランプにし「ディズニー・トランプ」を発売したのです。
当時、トランプは家庭で遊ぶためのアイテムではありましたが、子ども用の娯楽というわけではありませんでした。しかし、山内が子どもにターゲットを絞ったことで「子どもの玩具としてのトランプ」をいわば新しく開発することになったのです。
「ディズニー・トランプ」は発売から2年で150万個という大ヒットになりました。以降、任天堂は花札・トランプ屋から玩具屋へと発展を遂げます。
山内がディズニー・プロと提携したのは、31歳のときのこと。若き経営者の辣腕ぶりが光りましたが、「挑戦すること」の恐ろしさを知るのは、それからのことでした。
食品業界やタクシー業界に参入して大失敗
「よそがしないものをやる」
山内の経営者としての指針の一つですが、その姿勢は就任直後から一貫しています。しかし、挑戦には失敗がつきもの。当然、すべてがうまくいったわけではありません。
昭和35(1960)年には、タクシー業界に参入。「ダイヤ交通株式会社」を設立しました。一時期は40台近くを保有しましたが、運転手の労働組合と揉めて、撤退を余儀なくされています。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら