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「ファミコンの父」任天堂の山内溥が"50代で成功"を掴んだ背景 食品業界やタクシー、レジャー施設など実は失敗の連続だった

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  • 真山 知幸 伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA)
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「光線銃」のシリーズものは、さらに悲惨な結果となりました。射程を6メートル程度から30メートルまで伸ばすなどバージョンアップさせたうえで、2万5000円という高価格を打ち出しましたが、ユーザーが望んだ改良ではなかったようです。まったくといっていいほど売れませんでした。

それでもなお、山内は懲りずに、前のめりで新しいことに挑み続けます。それが、大型レジャー施設「レーザークレー射撃システム」です。スクリーンに映る円盤を、センサーつきの光線銃で撃ち落とすという新しい遊びでした。

40代での挑戦は経営を圧迫する要因に

山内はボウリングが大流行するなかで、ブームはやがて下火になると予想。ボウリング場の跡地を活用した「レーザークレー射撃システム」を開発しました。すると、全国のボウリング場から注文が殺到。山内は全国展開に向けて、莫大な投資に踏み切ります。

しかし、まもなくして第1次オイルショックが巻き起こり、注文のキャンセルが相次いでしまいます。負債は50億円にも膨れ上がり、任天堂は倒産の危機に見舞われました。

山内の40代での挑戦はいずれも花開かなかったばかりか、ことごとく経営を圧迫する要因になってしまったのです。

・55歳――ファミコンが大当たり、社会現象を巻き起こす

これだけの失敗を繰り返してもなお、山内の目線は常に新しい未来を見据えていました。

もちろん、「また次の挑戦も失敗してしまうのではないか」という内なる声と無縁だったわけではないでしょう。しかし、山内は若くして社長に就任してからというもの、常に業態を見直し、新事業に挑んできました。「挑戦グセ」ともいうべき心境に至っていたと考えられます。

そしてなによりも、不安や恐怖を上回るほどワクワクするような夢で、山内の頭の中はいつもいっぱいだったのです。家庭用テレビゲーム機の開発を決めると、昭和56(1981)年、山内は開発部長にこんな指示を出します。

「少なくとも1年間は他社が絶対真似できないものを出すんだ」

このときすでに、トミー、エポック、バンダイ、セガ・エンターテイメントといった国内の玩具メーカーに加えて、シャープ、カシオなどの電機メーカーと、さまざまな有力な会社がすでに、家庭用テレビゲーム機を発売していました。

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