蔦屋重三郎「出版競争」勝ち抜くために取った秘策 挑戦しないと飽きられる、蔦重が使った人脈

庶民の間で「黄表紙」が大流行
安永年間(1772〜1781年)は「黄表紙文学」(黄色の表紙の大人向け絵入り小説)が江戸庶民のなかで、大流行しました。
当初、黄表紙の出版をリードしていたのが、江戸の老舗出版社・鱗形屋でした。人気戯作者の恋川春町や朋誠堂喜三二を擁していた鱗形屋が黄表紙出版のエースだったのです。
ところが、鱗形屋の衰退に伴い、その系列であった蔦屋重三郎が、黄表紙文学界に殴り込みをかけてきます。もちろん、ほかの有力版元もさまざまな戯作者と手を組んで、黄表紙を多数刊行しています。安永の次の天明期(1781〜1789年)になると、黄表紙の出版競争が激しさを増してくるのです。
どこの業界でもそうかもしれませんが、競争が激化すると、普通にしていては、生き残っていくことはできません。奇抜なアイデア、もしくは他社が行っていない斬新な取り組み……そういったことをしていかなければ、競争から脱落してしまうでしょう。
では、蔦屋重三郎は、競争に勝ち残るために、何をしたのでしょう。
安永9年(1780)以降の蔦屋におけるヒット作を生み出したのは、前述の戯作者・朋誠堂喜三二と絵師・北尾重政のコンビでした。
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