蔦屋重三郎「出版競争」勝ち抜くために取った秘策 挑戦しないと飽きられる、蔦重が使った人脈
次に、志水燕十(1726〜1786年)も紹介しましょう。歌麿や山東京伝の名は知っていても、燕十の名を知る者は今では少ないでしょう。燕十は幕府の御家人であって、本名は鈴木庄之助だとされています。
燕十は、洒落本・黄表紙を発表するのですが、彼もまた鳥山石燕の門下でした。そして、当時の有名作家の恋川春町は絵を石燕に学んだとされます。燕十は、春町の「弟弟子」だったのです。
北尾重政のネットワークに助けられた
また、春町と朋誠堂喜三二は、親友関係にありました。このように見ていくと、蔦屋の黄表紙出版の「裏」には、北尾重政のネットワークの大きな影響力があったことがわかるでしょう。
蔦屋重三郎は、親交のある北尾重政に、新進芸術家を紹介されることもあったと考えられます(逆に重三郎が紹介してほしいと頼んだこともあったと思われます)。
重政は、自分の弟子のなかから、有望な人を重三郎に紹介。それが、山東京伝であり、喜多川歌麿であったのではないでしょうか。重政のネットワークをもって、新たな人間関係を築き、黄表紙の世界に進出していった重三郎。
新進作家の才能を見抜くことは勿論、重要なのかもしれませんが、人間関係(縁)の重要さということも、以上のことから理解できるのではないでしょうか。
(主要参考引用文献一覧)
・松木寛『蔦屋重三郎』(講談社、2002)
・鈴木俊幸『蔦屋重三郎』(平凡社、2024)
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