蔦屋重三郎「出版競争」勝ち抜くために取った秘策 挑戦しないと飽きられる、蔦重が使った人脈
喜三二は鱗形屋の人気作家でしたが、鱗形屋の凋落に伴い、以前から交流があった重三郎の蔦屋で黄表紙を刊行するようになるのです。蔦屋は上手く、喜三二を取り込んだと言えますが、これはある意味、(厳しい見方をすれば)鱗形屋の真似をしていると言えないこともありません。
蔦重が無名に近い作家を抜擢
何か新しいことをしなければ、飽きられて、没落していった版元と同じ運命を辿ることになるでしょう。それを避けるために、蔦屋がやったことは何か。そう、新しい「血」を入れたのです。
つまり、無名に近い新人作家・芸術家たちを抜擢して、蔦屋から書物を刊行させたのでした。
例えば、戯作者・浮世絵師の北尾政演(後の山東京伝)に黄表紙『夜野中狐物』の挿絵を、戯作者・志水燕十に黄表紙『身貌大通神略縁起』を、喜多川歌麿には同書の挿絵を描かせたのです。
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また、安永9年(1780)には、文人の大田南畝が蔦屋から『嘘言八百万八伝』という黄表紙を刊行しています。
彼らは、後に天明・寛政時代の江戸芸術界のスターになっていく人々であり、そうした人々に活躍の場を与えた蔦屋重三郎の先見の明には、刮目すべきものがあるでしょう。
とは言え、重三郎がイチから彼らを発掘したわけではないことも事実です。現代においても、山東京伝の名は歴史教科書に載っていますが、彼は浮世絵師としては、北尾政演を名乗っていました(山東京伝も北尾政演も本名ではありません)。
「北尾」という名乗りからわかるように、政演は絵師の北尾重政に絵を習っていました。政演は、重政の弟子だったのです。
そして、江戸中期の浮世絵師として現代にまでその名を残す喜多川歌麿。彼は幼少時に絵を鳥山石燕(1712〜1788年。狩野派の町絵師)に習ったとされます。
石燕は北尾重政と親交があったとされます。そればかりか、石燕の弟子・歌麿は、北尾重政の「弟子同前」(『古画備考』)だったという指摘もあります。歌麿は師匠の石燕を通じて、重政とも親交を深め「弟子同前」の関係となったのでしょう。歌麿もまた、山東京伝(北尾政演)と同じく、北尾重政門下と括ってよいと思われます。
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