マスク氏と「大ゲンカした日本人」が元リクの必然 人材輩出企業「リクルート」強さの秘密【後編】
帰国子女で世情に疎く、バイトに夢中だったこともあって、すっかり就活に出遅れ、周りがしっかり内定をもらったころに、就職活動を始めた。馴染みのあるNBCなどテレビ局に行ってみたが、当時のアメリカのテレビ局はケーブルテレビに押されてリストラの嵐。
仕方がないので段ボール箱で分厚い「就職情報」を送ってきたリクルートという会社を覗きに行くと、まだ採用をしていて、天ぷらをご馳走してくれた。
「いい会社じゃないか」
時は1988年。創業者の江副浩正氏が「紙からデジタルへのシフト」をぶち上げ、人事部に「1000人採用しろ」と発破をかけていた。
「とにかく手当たり次第、採用してましたから。あの年じゃなかったら僕はリクルートに入れなかったと思います」
笹本氏はそう振り返る。
就職先を伝えると祖母が言った。
「よかった、よかった。プロ野球をやってるくらいだから、立派な会社なんだろ」
「おばあちゃん、それヤクルト」
当時の知名度はそんなものだった。
リクルート名物「ビル倒し」の洗礼
配属先は新しい事業を立ち上げる「企画推進課」。ちょうど海外の不動産情報を扱う業界向けの情報誌を創刊したばかりだった。その春に就職した同世代がお遊戯のような「新人研修」を受けている頃、ビルの上から下まで飛び込み営業をかける、リクルート名物「ビル倒し」の洗礼を受ける。「とりあえず売ってこい」と先輩に名刺を渡された笹本氏は東京の街をさまよっていた。
情報誌を主力とするリクルートで「売る」とは「広告を取る」ことだが、新人の笹本氏にはページ当たりの単価も分からない。
「いくらで売ればいいんですか?」
恐る恐る、先輩に聞くとどやされた。
「やりもしないうちから、いちいち聞くんじゃねえ!」
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