憲法と教育の視点で見る「日本の教育」のねじれ 木村草太さんと内田良さんの対談から考える

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木村:ただ、憲法学者の奥平康弘などが指摘しているのですが、この構図はおかしいんじゃないかと。現場の教師は、やはり権力側なはずです。教師を国民の側に位置づけると、教師が行う人権侵害や人権制約が見えにくくなってしまう。これまでの図式を修正したうえで、教師と国家の役割分担を考えるべきではないか、それが本書の基調としてあります。

内田:すごくよく分かります。「子どもを戦場に送るな」という教師側のスローガンがありますよね。子どもは教師が守る、国に渡してはならない、と。このスローガンは戦後の日本社会にとって重要なものですが、一方でこれが前提とするのは、教師が善で国家が悪の構図です。

その結果、学校は強い独自性をもち、それは外界からの閉鎖性や、特殊な内部ルールの確立につながっていきました。

内田良
内田良さん(撮影:後藤利江)

木村:念のため補足すると、現場の教師が子どものために立ち上がる必要がある時もあって、悪いことばかりとは言えない。

例えば、アメリカの保守的な州では、保護者と州知事が一緒になって図書館からLGBT関係の書籍を排除したり、性教育を行った教師を追い出したりということが起きている。そういった状況では、現場の教師の存在は歯止めになりえます。

教師側の権力性は忘れられがち

内田:教師側の権力性は、教育学の視点からは意外と見えにくいことがあります。

以前、校則問題を追いかけていた時、最初は自分自身、単純な人権問題だと思っていました。理不尽な校則があって、それを生徒会が頑張って動かして、自分たちでルールを作るようになった、と。

美談として語られがちですが、よく考えると半年・一年かかって変わったのが靴下の色、一色だけだったりするわけです。靴下の色さえ容易に変えられない構造的な力が明らかに働いている。そのことが見落とされてしまっていると感じました。

教師は言うまでもなく、教室の絶大な権力者であるはずが、忘れられがちになるんですね。

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