憲法と教育の視点で見る「日本の教育」のねじれ 木村草太さんと内田良さんの対談から考える

ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

木村:「学校現場はもっと法的に統制されなければならないんじゃないか」という問題意識は、それこそ中学生の頃からありました。大学で憲法を学んでいるうちに、「憲法と学校」は実は古典的なテーマであることを知ったのです。

憲法学には多様な対立軸がありますが、まず「個人」と、個人の自由や権利を制約する「国家」という対立軸が重要です。さらに、主体が子どもの場合には、自己決定が難しいため、「親」という軸も入ってきます。

かつて、教育はプライベートな領域でなされていました。親が属する階層や経済力に応じて、どのような教育を受けさせるかが決定されていたのです。貴族には貴族の教育、商人には商人の教育、漁師には漁師の教育があった。ここでは、親の「教育権」は「自然権」として理解されています。

木村草太
木村草太さん(撮影:後藤利江)

ところが、近代以降、国民国家の担い手を作ることを目指して、「公教育」の必要性が明らかになります。当然、親の教育権と公教育の対立が生じます。

教育は宗教と結びつくので、「親が属する宗教団体の教育」対「世俗的な公教育」という対立構造は深刻な問題となりました。特定の宗教組織が教育に対して大きな影響力を持っていたフランスやアメリカでは、この傾向は顕著でした。

教員は権力側の立場であるはずが…

他方、日本では、近代化に伴って明治政府が学校制度を整備したため、それと対抗する親の教育権はそもそもありませんでした。代わりに対立項となったのが「国民の教育権」です。

戦後、保守政党が政権を独占したため、公教育のカリキュラムが保守的な内容になっていく。それに対抗するために、「国家ではなく国民が教育権を持っているはずだ」という論理が生まれるんですね。

興味深いのは、現場の教師は公務員ですから、当然、権力側のはずなのですが、日本の文脈だと国民側に位置づけられるんです。

内田:逆なんですね。

木村:そうなんです。アメリカでは、「宗教教育を受けさせたい親」対「公教育を説く教師」という図式になるはずです。

日本型の図式は、しばしば、学習指導要領等の運用という論点で表出します。現場の教師は、指導要領をどこまで逸脱して、あるいは検定教科書をどこまで無視して教えて良いのかという論点ですね。実際に、旭川学テ訴訟といわれる訴訟も起きています。

教師が国民の側に立つとすれば、それらは無視して、教師こそが教育内容を決めるべきだ、それが子どものための教育になるはずだ、という理屈になる。ここで親は後景に退いています。

次ページはこちら
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事