スカイマーク会長が退任直前に語った真実 井手会長に聞く、スカイ17年の軌跡<前編>

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(撮影:大澤誠)

ボトルネックは資金だけではなかった。大手の寡占状態が続いていた航空業界への新規参入には、法制度や空港の発着枠など、多くのハードルが立ちはだかった。

「当時の航空法は新規会社を入れる前提ではなかったので、オペレーターとして飛行機を飛ばすだけの会社という位置づけだった。そうなると当然、整備や乗員養成、グランドハンドリング(地上支援業務)は大手に委託せざるをえず、何でも了解を得なければならない。

特に航空機の整備は閑散期に行うものだが、委託先の大手が自社機を優先し、われわれは書き入れ時の繁忙期にしか入れられない。就航当初は2機でスタートしたが、3機以上は受け入れられないとも言われていた。

そもそもエアラインビジネスは一定の機材と路線を持ち、規模のメリットを出さなければいけない。これから飛行機を導入したいという時に自由が利かない状態だった」

われわれが新規航空会社のパイオニア

自力で成長しようにも、足かせをはめられている。井手氏はここで事業計画の書き直しに着手する。

「整備も運航も、3カ年計画で完全に自立しようと決めた。そして3機目の購入資金が必要だったため、2000年5月31日に東証マザーズに上場した。

機材を増やすからには、路線も確保しなければならなかった。大手にとって既得権益だった羽田空港の発着枠を獲得する必要がある。『低価格運賃によって新たなマーケットを作り、十分に国民の利益になっている』と、新規航空会社が果たす役割を国土交通省に伝え、有識者懇談会で道を開いてもらった。

そこから、5年ごとに発着枠の見直しをして、必要に応じて回収し、再配分しようという建設的な議論になった。だからこそ、『われわれが新規航空会社のパイオニアだ』という意識が強い」

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