田沼意次を重用「徳川家治」どんな人物だったのか 大河ドラマ「べらぼう」での描かれ方にも注目
なぜならば、紀州藩主だった吉宗が将軍に抜擢されたことで、吉宗は紀州藩から信頼できる人材を幕臣として登用。そのうちの1人が田沼意次の父で、紀州藩士の田沼意行である。意行が取り立てられたことで、息子である意次は、次の9代将軍となる吉宗の息子・家重のそばで仕えることになった。
家重は名君・吉宗の息子とあって期待が大きかったが、幼少期は文武も学問もぱっとせず、コミュニケーションにも難があった。
だが、家重には人を見る目があったようだ。将軍になると、意次を重用して1万石の大名に取り立てている。やがて息子の家治に将軍の座を譲って大御所となるが、翌年に死去。10代将軍を務める息子の家治に、こんな遺言を残したという。
「田沼意次を重用するように」
家治はその教えを守り、意次の力を借りて政務を行っていく。いや、力を借りて、どころではなく、政策をほぼ丸投げしていたというべきだろう。
吉宗の孫として期待された家治は、どんな将軍だったのだろうか。
幼少期は祖父・吉宗の影響下にあった家治
徳川家治は、9代将軍・徳川家重の長男として生まれた。だが、「将軍の息子」というより「将軍の孫」として育てられたというほうが実態に近いだろう。家重が、将軍としてやっていくには不安視されるような人物だったことは、すでに書いたとおりだ。吉宗としても息子に継がせるのは心配だったらしい。
家重に将軍の座を譲ったのは、家治が10歳になってからのこと。しかも、将軍から退いたのちも吉宗が大御所として、権勢を振るった。家治は、おのずと父よりも祖父の影響を多く受けて育つこととなった。
吉宗はかつて息子の家重に英才教育を行ったものの、本人にはまったく響かず、徒労に終わった経験を持つ。孫の家治こそ立派になってほしいと願ったらしい。
家治は寛保元(1741)年にわずか5歳で元服すると、和漢は成島道筑、剣術は柳生久寿、槍は小南三十郎と充実した教育スタッフから学ぶことになる。
家治は、まるで見込みがなかった父の家重とは大違いで、教えられたことをどんどん吸収していった。和漢はたちまち上達し、弓術や馬術、鉄砲などの武術にも長けたうえに、書画にも優れて、将棋も強かったという。
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