田沼意次を重用「徳川家治」どんな人物だったのか 大河ドラマ「べらぼう」での描かれ方にも注目
家治の幼少期における有名なエピソードが『徳川実紀』には記されている。まだ10歳にもならない家治に、吉宗は唐紙を与えて「これに字を書いてみよ」と書を書くように促した。
筆硯が用意され、家治が紙に「大」の一字を大きく書こうとするも、周囲には、紙が小さくてスペースが足りないように感じたようだ。
「御傍に侍ふ人々いかがなし給ふにやとみまもり居しに」(『徳川実紀』)、つまり、そばで見守る人たちが「どうするのだろう」と見守っていると、家治は少しも躊躇せずに(「いささか滞る御けしきもなく」)、紙をはみ出して畳の上に文字を書き、筆もその場に捨て置いたというから、豪快である。
そんな孫をみて吉宗は「天下を志す者はこうでなければいけない」(天下をも志ろしめされむかたの御挙動かくこそあらましけれ)といって喜んだという。
いかにも逸話めいており、そのまま鵜呑みにはできない。だが、こんなエピソードが広まっていることから、吉宗は孫の家治に大きな期待をかけ、そのことは周囲にもありありと伝わっていたようだ。
伸び悩んだが民思いの将軍だった
しかし、吉宗の英才教育は、息子の家重のときと同様に、空振りに終わったといってよい。有望視された家治だったが、将軍として目立った功績を残すことはなかった。いったい、なぜなのだろうか。
思うに、卓越したリーダーというものは、幼少期に苦労して、どこかコンプレックスを抱えている場合が多い。江戸幕府を開いた初代将軍の家康は、幼少期に厳しい人質生活を送り、その後も尾張の織田信長や甲斐の武田信玄などの有力大名に翻弄されつつ、熾烈な戦国時代を生き抜いた。家康は「人たらし」と言われるほど、数多くの大名を魅了したが、その人間力は苦境のなかで磨かれたものに違いない。
また、祖父の吉宗は、江戸城内に支持基盤を持っていなかったため、やはり苦心している。有名な目安箱の設置は、不満を持つ庶民と直接つながることで、吉宗は求心力を高めようとしたともいわれている。
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