インドでは「排泄行為」がとんでもなくカッコいい 日本人のようにコソコソトイレに行かない

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こうして家に運ばれた3〜4個の水瓶が、この家の1日分の水ということになる。家族は、ローターと呼ばれる真鍮の小さなコップを利用して、この水を大事に使っていく。

水洗トイレなど、あるわけがない。彼らはコップで汲んだ水をペットボトルに半分ほど入れ、意気揚々と沙漠の大地に向かって歩いていく。枯れたサボテンや、砂でできた地形の窪みを見つけては、しゃがみ込んでサッと用を足す。

持ってきた水を使って左手で陰部を洗い、使った手もしっかりと洗った上で、空のペットボトルを持って颯爽と帰ってくるのだ。トイレットペーパーなどは存在しない。

排泄行為がこんなにかっこいいなんて

僕には、この彼らの排泄行為が、なんともかっこよく思えた。トイレに行く姿に尊厳を感じるほど、堂々としている。ヒソヒソと、「ちょっとお手洗い……」などとやっていた僕が住む世界からは考えにくいほど、偉そうなのだ。

ヘタレ人類学者、沙漠をゆく~僕はゆらいで、少しだけ自由になった。
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最初の頃は、僕はトイレに何度も失敗した。まずは場所選びが下手くそなのだ。どの目線からも逃れられる、絶妙なスポットを見つけられない。ここだ! と思ってしゃがみ込むと、遠くから「おい! そこじゃ丸見えじゃあ!」というお叱りの声が飛んでくる。

周囲の人の気配と、2つの家屋(パーブーの実家と隣家)からの角度が重要なのだ。しかし、一度死角を見つけることができれば、そこが自分専用のトイレとなる(だいたい皆おんなじことを考えるので、皆様の痕跡がしっかりあったりする)。

それにしても、トイレに使う水が、僕には少なすぎた。ペットボトル1本分は、ほしい。直接狙ったスポットに当ててしっかり洗えるようになるまで、背面から前からいろいろと試したが、ダラダラとこぼし、水を無駄にしてきた。シャツやズボンがびしょびしょになった。こぼれた水は沙漠の砂に吸収され、瞬時に乾き切ってしまう。何事も訓練だ。

僕はこの世界では、ちゃんと社会化されていない子どものようなものだった。彼らにとっての「あたりまえ」が、通用しない未熟者。そしてそれはまた僕にとっての「あたりまえ」が通用しない異世界。

間違って、怒られて、通じなくて、伝わらなくて、悔しくて、通じた時には嬉しくて……。このプロセスに、僕だけではなく、彼らも飲み込まれていく。

そして彼らも、僕のことを理解し始め、自身の在り方や、自らの「あたりまえ」を相対化し、差異に驚愕し、そして繫がり方を模索していく。

僕もゆらぎ、彼らもゆらぐ。ゆらぎながら、ともに世界を創っていく。この絶え間なく、つらくも嬉しいぶつかり合いの長い長い過程こそが、「異文化理解」などと軽々しく表現できないような、忍耐のいる学びのプロセスなのだ。失敗や怒りは、この豊かな「ゆらぎの空間」を創造するための、最高の入り口なのだ。

小西 公大 東京学芸大学 教育学部 多文化共生教育コース 准教授

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こにし こうだい / Kodai Konishi

1975年、千葉生まれ。東京都立大学社会科学研究科博士課程修了。博士(社会人類学)。人類学的視点を基盤として、パフォーミング・アーツやフォトグラフィーの持つ力と、社会的結合や新たな教育のあり方を接合する研究に取り組む。日本南アジア学会常務理事、NPO法人FENICS理事、地域開発の実践と結びついて研究集団「生活文化研究フォーラム佐渡」を運営する。共編著に『フィールド写真術』(古今書院)、『Jaisalmer:Life and Culture of the Indian Desert』(D.K.Printworld)、『インドを旅する55章』(明石書店、近日刊行)などがある。

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