仏教に学ぶ「家族との距離感」を整理する心得3つ 年齢を重ねれば当然、関係性も変わってくる
江戸時代の侠客、上州館林の大前田英五郎は「ケンカというのは、どちらに理屈があろうと、バカを看板しているようなものだ」と言ったとされますが、自己犠牲のアピール合戦が、この言葉を絵にしたようなドタバタ劇を生むことは、私も何度も経験しています。
夫婦のどちらかが相手に依存したり、強権的になったりしないで、それぞれが相手の主権を認める独立国家のような関係を目指すこと、その独立国家同士が貿易をすると考えること、それが私の考える夫婦じまいです。
貿易の基本は、相手にないものを自分が持っていること、相手がしないことを自分がすることです。「料理は作るから、お風呂掃除は頼んだわよ」「私は買い物に出かけるから、洗濯物は取りこんでおいて」など、お互いのやること、時間、居場所などを交換すれば、良好な貿易関係が成立します。
もう1つ大切なのは、同じ時間、同じ空間を共有する努力を怠らないこと。仏教では、何かしら相手との共通項に気づくことから、慈悲(やさしさ)が生まれると説きます。私もその通りだと思います。「あなたはあなた、私は私」と割りきってしまうと、やさしさが発生しないのです。
葬儀の現場にいる坊主として、仲のよい夫婦ほど、どちらかが亡くなったときの喪失感が早く解消することを実感しています。今の夫婦関係を少し変化させつつ、相手をおもんばかった、仲のよい夫婦でいたいものですね。
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心の垣根のもっとも内側にいる人は、誰ですか?
仏教で説く仏さまには、心の垣根がありません。誰に対しても分けへだてのない「絶対平等」の地にいるからです。しかし、人間関係の中で生きている私たちがその境地に至るのは、簡単ではありません。人は幾重にも、心に垣根をはっているものなのです。
もっとも内側の垣根の中にいるのは、ケンカをしても、翌日には何もなかったようにふるまえる人たちです。親きょうだい、親友などがここに入るでしょう。その外側には、気の合う友人や親戚、同僚や近所の人が入るでしょう。Aさんには何かしてあげるけど、Bさんにはしないということなら、あなたの心の中で、AさんをBさんより内側の垣根の中に入れているということです。
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