そんな道長だけに、三条天皇の行動は、理解しがたいものがあったに違いない。長和元(1012)年2月14日、三条天皇は道長の次女・妍子(きよこ)を中宮としたが、3月に入ると、長年連れ添った妻・娍子(すけこ)も皇后にすると言い出したのである。
娍子の父・藤原済時(なりとき)は、正二位・大納言という官位にすぎず、しかもすでに他界していた。大河ドラマ「光る君へ」では、三条天皇の申し出に道長が「大納言の息女が皇后になった例はございません」と戸惑うシーンもあった。
三条天皇と娍子はどんななれそめだったのだろうか。
兼家に可愛がられて育つ
のちに三条天皇となる居貞親王は、天延4(976)年1月3日に冷泉院の第2皇子として生まれた。母は藤原兼家の娘・藤原超子である。道長は藤原兼家の息子なので、道長にとって三条天皇は、一条天皇と同様に甥にあたる。
居貞親王を取り巻く環境としては、自身が生まれる前に、冷泉天皇として在位中だった父と、藤原伊尹の娘で女御の懐子との間に、第1皇子として、師貞親王が誕生していた。これがのちの花山天皇だ。
冷泉天皇は気の病があったことから、わずか2年で退位。冷泉天皇の皇子がまだ幼かったため、弟が円融天皇として即位。兼家はさまざまな状況を想定し、第63代天皇の冷泉天皇には長女の超子を、第64代天皇の円融天皇には次女の詮子を送り込んでいたことになる。
円融天皇は、冷泉天皇の皇子が成長するまでの「中継ぎ」と見られていた。そのわりには長く15年近く在位するが、予定通りに冷泉天皇の第1皇子・師貞親王に譲位。師貞親王は花山天皇として即位するが、譲位と引き換えに、円融天皇は詮子との間に生まれた第1皇子・懐仁を立太子させた。
そうなると、詮子の父・兼家からすれば、孫である懐仁を早く即位させたい。花山天皇をだまして出家させると、懐仁が一条天皇として数え年の7歳で即位する。その際に、兼家はもう一人の孫である居貞親王を立太子させることに成功した。
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