娍子の父・済時は藤原師尹の次男で、大納言兼左大将だった。家柄や地位という面では、注目するに値しなかったが、それでも居貞親王が4歳年上の娍子を熱望したという。
実は、かつて花山天皇が娍子に入内を求めたが、娍子の父が固辞したという経緯があった。色好みとして知られた花山天皇に選ばれるだけあり、娍子は美女だったといわれている。
その後、長徳元(995)年には、藤原道隆の次女・原子が入内し、居貞親王の新たな妃となるが、すぐに道隆は死去。兄の伊周や隆家も失脚し、姉の定子も亡くなってしまう。子をもうけることもないまま、原子は22歳の若さで死去している。
娍子を寵愛し続けた三条天皇
一条天皇の治世が非常に長く続くなかで、居貞親王は皇太子として25年も過ごすことになる。不遇な時代ではあったが、その間、後見の弱い娍子を寵愛し、4男2女をもうけたことを思えば、家庭の幸せには満ちていたのではないだろうか。「男は妻がらなり」と妻の家格に重きを置いた道長とは、また違う価値観が三条天皇にはあったのだろう。
一条天皇の病が重くなると、寛弘8(1011)年6月13日、居貞親王は36歳にしてようやく三条天皇として即位する。
だが、約4カ月後の10月24日には、父の冷泉院が崩御。すでに弟の為尊親王は長保4(1002)年に26歳で病死し、もう一人の弟・敦道親王も寛弘4(1007)年に27歳の若さで死去している。
父の死によって、いよいよ親族がみな亡くなった三条天皇。心の支えは娍子と、その子どもたちだった。
道長の次女・妍子を中宮とした三条天皇が、そのあとすぐに長年連れ添った妻・娍子も強引に皇后としたのは、父の死から数カ月後のことであった。
【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
『藤原行成「権記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
倉本一宏『三条天皇―心にもあらでうき世に長らへば』 (ミネルヴァ日本評伝選)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)
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