栄華を極める「藤原道長」裏にある"大病との闘い" 一条天皇に出家を願い出ることもあったが…
一条天皇も諦めません。「道長の言い分もわかる」としながらも「外戚(母方の親戚)で、朝廷の重臣である道長は、天下を治める宰相であり、私は補佐する立場にある。道長なくして、誰に務まるのだろうか。今は重病と聞くが、邪気がそうさせているのであり、出家まですることはない。よく考えてほしい」と重ねて慰留したのでした。
一条天皇にここまで言われたら、感激して、考えを改めるものですが、道長は「勅命(天皇の命令)は貴いもので、逃れることはできません。しかし、病が重いのです。出家の本意を遂げたいということを、重ねて申し上げたいと思います」と返答するのでした。
結局、一条天皇からはお許しをもらえませんでしたが、内覧(天皇に奉る文書や、天皇が裁可する文書などを先に見ること)は停止されています。
ところが、1年後には、道長は内覧に復帰しているので、これは病による臨時的処置、配慮だったのでしょう。998年の冬には政務を行っているので、病は治ったのだと思われます。
病の一方で、権力を強化するために動く
病を患った一方で、道長は権力をより強化するために画策します。999年11月1日、道長は長女の彰子を一条天皇のもとに入内させるのです。
この時点で一条天皇の後宮には、定子(藤原道隆の娘)、尊子(藤原道兼の娘)、義子(内大臣・藤原公季の娘)、元子(右大臣・藤原顕光の娘)がおりました。彰子にはライバルが沢山いたと言えるでしょう。
一方で、このときはまだ誰も皇子は産んでいませんでした。病み上がりの道長にとって、長女・彰子の入内は朗報だったと言えるでしょう。
彰子の入内に従ったのは、女房40名、童女6名・雑用担当者6名でした。紫式部はこの5年くらい後に、女房として仕えることになります。彰子は、15センチ以上の黒髪の美人で、12歳とは思えないほどの落ち着きぶりだったと言います。
さて、彰子の入内からしばらくして、中宮定子が皇子を出産します。敦康親王です。
道長は、皇子の7夜の産養(子供の将来の多幸と産婦の無病息災を祈る儀式)に奉仕しています。
しかし、内心は複雑な感情が渦巻いていたと思われます。長女・彰子にも早く皇子が誕生してほしいという思いとともに、もしそれが難しい場合は、自分が敦康親王の後見人になることも考えたのかもしれません。
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