栄華を極める「藤原道長」裏にある"大病との闘い" 一条天皇に出家を願い出ることもあったが…
後宮での彰子の立場を高めたい道長は、彰子の立后に向けて動いていました。
このとき、すでに定子が中宮の座についていました。彰子が立后したら、1人の天皇に、中宮が2人並び立つ事態になってしまいます。
ところが、定子は出家している身のため、国のための神事を行うことができません。よって「日本は神国であり、神事を重視すべき」との考えから、彰子の立后を主張する人もいました。
そこで1人の天皇に2人の后が並び立つ前例のないことを前に、対策が講じられます。彰子を中宮として、定子を皇后にするというのです。
そして1000年2月、彰子はついに中宮となります。史上初の「一帝二后」が実現したのです。
しかし、それは長くは続きませんでした。定子は同年12月に媄子内親王を出産しましたが、出産直後に亡くなってしまったのです。25歳という若さでした。
またもや体調を崩した道長
そして彰子の立后後、道長も体調を崩していました。またもや、重病となった道長は、政務を右大臣に任せることにします。天皇は道長の身を案じ、今度は100人の僧侶を道長に与えました。
道長は左大臣でしたが、左大臣の辞職も許されます(病平癒後には復職しました)。
先にも述べたように、何度も病に悩まされた道長は、困難を乗り越えて、権力をまた固めていきました。
ところが、このときの道長の病は重く、官職を辞退したい旨を上表しました。このときの病は「厭魅、呪詛」が原因とされました。
病中の道長には、亡き兄・道兼の霊託があったようです。道兼の霊が現れて「道長の顔は、病中でも鮮やかなこと、道兼邸の粟田山荘は寺院にすべきこと」などを告げたというのです。
また、邪気の詞というものもあり、それは「藤原伊周をもとの官職に戻したら、病は治るであろう」というものでした。道長はこのことを藤原行成に話したところ、行成は一条天皇のもとに赴き、道長の話を伝えます。
しかし、一条天皇は霊の言い分を許容しませんでした。そのことを聞いた道長は、怒りの形相となったようです。怨霊の病は、最高権力者をも恐れさせました。そして、その後道長の病は無事に平癒したのでした。
(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『藤原道長の日常生活』(講談社、2013)
・倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」を読む』(講談社、2013)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)
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