老婆が剃刀向ける「朝ドラ」寅子モデル抱いた葛藤 裁判官としてキャリアを積む中で苦しい思いも
また、嘉子が東京地方裁判所に着任したばかりの頃、原爆投下の違法性を争った国家賠償訴訟の「原爆裁判」が行われると、嘉子は第1回口頭弁論から結審まで担当し続けた。
結果的には、被爆者の損害賠償請求権は否定されて、訴えは棄却された。だが、判決文では「原爆投下は国際法違反」という判断が下されることになり、この見解がのちに被爆者救済の根拠となった。
判決が出たとき、嘉子は異動になっていた
判決は昭和38(1963)年12月7日に下されたが、このときすでに嘉子は家庭裁判所に異動になっていた。そのため、嘉子が法廷に現れることはなかったものの、判決文には「三淵嘉子」と自著で署名されている。嘉子が原爆裁判について語ることはなかったことからも、判決に至るまでに、人には明かせない葛藤があったのだろう。
裁判官としてさまざまな局面を経験した嘉子。その活躍の舞台を東京家庭裁判所の少年審判部九部に移すと、 9年間にわたって、少年の審判に携わることになった。
(つづく)
【参考文献】
三淵嘉子「私の歩んだ裁判官の道─女性法曹の先達として─」『女性法律家─拡大する新時代の活動分野─』(有斐閣)
三淵嘉子さんの追想文集刊行会編『追想のひと三淵嘉子』(三淵嘉子さん追想文集刊行会)
清永聡編著『三淵嘉子と家庭裁判所』(日本評論社)
神野潔『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』(日本能率協会マネジメントセンター)
佐賀千惠美 『三淵嘉子の生涯~人生を羽ばたいた“トラママ”』(内外出版社)
青山誠『三淵嘉子 日本法曹界に女性活躍の道を拓いた「トラママ」』 (角川文庫)
真山知幸、親野智可等 『天才を育てた親はどんな言葉をかけていたのか?』(サンマーク出版)
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