老婆が剃刀向ける「朝ドラ」寅子モデル抱いた葛藤 裁判官としてキャリアを積む中で苦しい思いも
出身校や志望動機、家族について聞かれて簡潔に答えているが、「戦争未亡人ですね?」という問いかけには「そんな表現を使わないでください。戦争未亡人てイヤな言葉です」とハッキリと不快な感情を相手に伝えているところは、嘉子らしい。
記事が「これ以上の質問は職務中ですとやわらかく断られたが、二十歳台に見える美しい判事さんはニコニコ明快に答えてくれた」と締められているあたりも、嘉子からすれば、引っかかりを覚えたのではないだろうか。
また別の新聞の取材では、嘉子はこんなふうに答えている。
「よくわたくしのことを女の味方になるために……職業柄、きめつける人がいますが、そんなこと考えたことないわ、男だって女だって同じものです」
あくまでも女性を含めた困っている「人間」のために何か力になりたい、というのが嘉子の考えであり、その思いは弁護士時代から変わることはなかった。
「女性は家庭裁判所へ」の見方に警戒する
昭和31(1956)年5月、嘉子は41歳のときに約3年半にわたる名古屋での勤務が終わり、東京地方裁判所の判事になった。
数カ月後には、初代最高裁長官・三淵忠彦の長男にあたる、三淵乾太郎と再婚。お互い子連れで、乾太郎は嘉子より9歳年上で50歳だった。嘉子はプライベートの面でも気持ちを新たにすることとなった。
そして、同年12月からは東京家庭裁判所の判事も兼務することとなり、昭和38(1963)年4月から東京家庭裁判所へと異動している。
実は昭和25(1950)年に、まだ判事ではなく判事補だった頃、嘉子はアメリカを視察する機会があった。アメリカでは、女性が一人で裁判所を任されていることや、裁判所のなかに託児所があることなど、驚きの連続だったようだ。
そして、アメリカ視察から帰った頃、嘉子はNHKの座談会に女性法律家の代表として出席。その場で「女性の裁判官は女性本来の特性から見て家庭裁判所がふさわしい」という意見が出ると、嘉子はすぐさま反論している。
「家庭裁判所裁判官の適性があるかどうかは個人の特性によるもので、男女の別で決められるものではありません」
このときに嘉子は内心、警戒心を強めたという。次のように振り返っている。
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