虎に翼モデル「三淵嘉子」弁護士でも開店休業の訳 戦争の足音聞こえる中で、教師の仕事が軸に
昭和11(1936)年に弁護士法が改正されたことで「弁護士試補制度」が導入され、1年半にわたる修習制度が新たに設けられた。嘉子は、丸ノ内ビルヂング内にある、仁井田益太郎の弁護士事務所で修習を受けることになる。
やる気に満ちあふれた嘉子は、さぞ張り切ったであろう……と思いきや、自分の父親のような世代の男性たちと一緒に議論するのは、やや気が重かったようだ。「私の歩んだ裁判官の道」で、嘉子は当時のことを次のように振り返っている。
「討論の場で若い小娘が年輩の男性の自尊心を傷つけるような議論ははばかられ、遠慮しながらの発言で常に欲求不満が胸にたまっていた」
いかなる状況においても、自分が正しいと思うことだけを言葉にしたい――。嘉子のそんな思いは、やがて弁護士から裁判官へと転身させることになる。
開戦によって民事裁判が減少することに……
修習を終えると、嘉子は弁護士試補考試に合格。昭和15(1940)年12月に、弁護士登録を無事に終えている。
引き続き、仁井田益太郎の弁護士事務所で勤務することになり、ついに嘉子は弁護士としてのキャリアをスタートさせる……はずだったのだが、なかなか思ったように活躍できない。戦争が始まってしまったからだ。その影響を嘉子はこんな言葉で説明する。
「昭和16年に第二次世界大戦が始まると、訴訟事件殊に民事事件は国が戦争をしているのに国民が私的な争い事でお上を煩わすとは何事かという風潮で、次第に事件が減少した」
当時、駆け出し弁護士の嘉子は、離婚訴訟の担当をしていた。夫から離婚を請求されている妻が、疑われている自身の不貞を否認。名誉のために戦う構えだったという。
ところが、夫に召集令状が届けられると「何の憂いもなく出征することが第一だ」という雰囲気のなか、協議離婚が成立。訴訟が取り下げになったこともあり、嘉子は「呆気にとられる思いであった」と胸中を明かしている。
戦争という一大事の前には、個人間の争いは、当人同士で話し合って解決すべき……そんな法律家の存在意義が問われるような時代になってしまったようだ。
嘉子は弁護士登録を行う前に、明治女子部法科の助手になっていたため、いつしか弁護士より、教師としての活動が主軸になっていったようだ。
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