「もしも家康が総理」で吉宗がボヤいた驚く一言 多方面に気遣い、暴れん坊将軍ではなかった?
吉宗は将軍の嫡男でもなければ、兄弟でもない。つまり江戸城内には気心知れた相手がいない。「側用人の廃止」によって、将軍へと後押ししてくれた譜代門閥層に配慮したのも、それだけ支持基盤がもろかったがゆえといえる。
だが、幕府の内実を考えると、そうやってご機嫌取りばかりしているわけにはいかない。というのも、元禄時代のバブルがはじけてしまい、不景気が全国に蔓延していた。幕府も財政赤字に陥っており、旗本・御家人への給与の支払いも滞るほど深刻だった。
つまり、吉宗は江戸城での人間関係を一から構築しながら、さらにみなが嫌がる財政改革を行わなければならなかったのだ。そのためには、家柄に頼る譜代大名たちでは話にならない。すでに実績があり、信用できる紀州藩士を登用する必要があった。
信頼できる紀州藩士を重要ポストにつけた
吉宗は「御側御用取次」というポストを作り、紀州藩政を支えた有馬氏倫と加納久通らを抜擢。御側御用取次は「将軍と老中の間を取り持つ」というのがその役割だったが、実質は将軍が政務を行うにあたっての相談役であり、人事にまで介入したようだ。
有馬と加納は将軍の「左右の手のごとく」働いたとされており、将軍直下の実行部隊だったとみるのが妥当だろう。
吉宗が巧みなのは、御側御用取次を「旗本が就く職」として、規定役高を5000石としたことである。これまでの側用人には、身分が低い者もいたが、側用人にとりたてられたことで大名格になった。1万石以上の領地を持ち、老中に準ずる待遇を与えられていたため、どうしても側用人は反感を買いやすかった。
そこで吉宗は、御側御用取次の待遇をあえて手厚くしないことで、抜擢された者たちが嫉妬によって周囲から足を引っ張られるのを防いだのである。
そうして譜代門閥層の顔を立てながらも、信頼できるかつての実務者を登用した吉宗。幕政の中核にいた間部詮房、新井白石をはじめ、小姓や小納戸、奥医師などを退職させて、多くの紀州藩士を幕臣として迎えている。
また、吉宗は大岡忠相を江戸奉行に抜擢し、青木昆陽や西川如見といった異色の学者も登用した。享保7(1722)年には、水野忠之を勝手掛老中(財政担当)に任命。盤石の体制で「享保の改革」へと乗り出すことになる。
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