「もしも家康が総理」で吉宗がボヤいた驚く一言 多方面に気遣い、暴れん坊将軍ではなかった?

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吉宗は時代劇ドラマ「暴れん坊将軍」では主人公として人気を博していることもあって「しがらみにとらわれずに、改革を断行した庶民の味方」というイメージを持たれやすい。

だが、実際は多方面に忖度しており、「暴れん坊」どころか、かなり気を遣いながら政務を行っていた。というのも、吉宗は将軍になる経緯で、人間関係であちこちに貸しを作っており、自分勝手に振る舞うわけにはいかなかったのである。映画をより楽しむうえでも、吉宗の実像について解説しよう。

「暴れん坊」どころか多方面で気を配っていた

7代将軍の家継が8歳で危篤状態となると、徳川宗家(将軍家)の血統がとうとう途絶えてしまい、「次期将軍は誰にするのか」と騒がしくなってきた。

紀州の吉宗のほか、尾張から徳川継友、水戸から徳川綱条と、御三家の当主が集められ、老中、側用人らとともに一室にこもって、話し合いが行われている。

その結果、選ばれたのが吉宗だった。年齢は33歳で、すでに紀州藩主として12年間の治世を行った経験が買われた格好だが、実績が決定打となったわけではない。吉宗を将軍に選んでもらおうと、紀州藩の家臣たちによる裏工作が行われたといわれている。

吉宗を将軍にするべく、紀州藩の家臣たちが注力したのは、反主流派の取り込みである。大奥の天英院や新井白石の論敵である林大学頭信篤、そして、老中を始めに幕府の要職にいた譜代門閥層の支持を取りつけるために働きかけた。

そのため、吉宗は将軍になってからも、支持してくれた譜代門閥層や大奥に最大限の配慮を行いながら、財政的に苦しい幕府を立て直さなければならなかった。

徳川家を長く支えてきた譜代門閥層は本来、幕政の中枢にいるべき存在だが、綱吉が始めた「側用人政治」を契機に、段々と軽視されていった。そのため、吉宗は支持してくれた譜代大名のために、将軍になってすぐに「側用人の廃止」に踏み切っている。

その一方で、大奥の二大勢力、つまり、第6代将軍・徳川家宣の正室である天英院の派閥と、家宣の側室で第7代将軍の家継の生母である月光院の派閥のケアも怠らなかった。天英院には1万1100両と米1000俵、月光院には8600両と米1130俵と、手当を増額している。

吉宗は四男であり、紀州の藩主になる見込みさえ薄かった。まさか将軍の座までつかむとは、誰も予想しなかっただろう。それゆえ吉宗は「強運」とされるが、実際のところは、吉宗とその周辺が、将軍の座をつかむべく動いていたのである。

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