赤坂真理さん独白「本当に欲しいのは幸せだった」 「生きづらさを緩和しようと」して求めたもの
言葉の遊びをしているわけではない。大事なことなのだ。言葉は人の意識をつくり、その集まりが、集合意識をつくる。その意識にのっとって治療法というものも発想される。だとしたら、言葉をきちんと理解しなければ、本質から外れた治療法が主流となっていくこともありうるのだ。本質から外れた対応をしても、いつまでも本質はその人の中で放置される。
依存症は、それを認めたときに初めて快方に向かうと言われる。だとするなら、自分の納得できる言葉で自分を提示したいではないか。
当事者の実感がにじんだ言葉=「固着」
「生活に支障をきたしてもなお、あるものから離れられないこと」。これをなんと言うか。
説明しようとしたら、この文章のように和漢混淆の文で言うしかない。そうすることを日本語のオフィシャルな用語はひどく嫌う。和語というのは、漢語の補足説明のような位置付けになる。これは日本語の長い歴史においてできた言語特性であり、そうである以上、日本人の意識特性をどこかで縛っているメンタリティだろう。
たしかに、誰もが共通に運用できるには統一された簡潔な言葉であることが望ましいが、当事者がそれに合わせさせられるとしたら、本末転倒ではないか。当事者には当事者の実感があり、本来はそれが聞かれてから、それに合わせて治療法というものが発想されるべきだ。けれど実際は治療法や治療者に、当事者のほうが話を寄せていくという事態が起こりやすい。
さて、述べたように日本語は、オフィシャルな用語は漢語にしなければ気が済まない文化だ。だったら、と考えてみる。もっと端的な漢語を探してみようではないか。
とても歴史の古い言葉が頭に浮かんだ。「執着」。これは「依存症」よりはるかにアディクションの本質に近いし、ブッダはすでにすべての苦しみの元のことを執着だと言った。だとしたらアディクションの苦しみとは、人類の歴史と同じくらいに長い。人間の苦しみはすべて多かれ少なかれアディクション、と言うことができる。
さらに考えてみる。対象から離れられないという意味に強調を置くと、わたしとしてはこう言ってみたくなる。
「固着」。
ここでは、依存症や嗜癖という言葉に替えて、基本的に「アディクション」「固着」を使っていきたい。
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