赤坂真理さん独白「本当に欲しいのは幸せだった」 「生きづらさを緩和しようと」して求めたもの

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何かに固着すること。こだわらずにいられず、そのことが頭から離れず、実行せずにいられない気持ちになること。しかしその実行によって、新たな苦しみが生まれてしまうこと。

考えてみれば不条理きわまりないこうした状態に、ある年齢以上の人間のほぼ全員が悩んだことがあるはずだ。これはほぼ心のメカニズムそのもののようにも思える。だからアディクションについて考えることは、人類にとっての「心の取り扱い説明書」を書くようなものだとわたしは思う。

それは最初に傷を覆う方法だった

人類の問題としてアディクションを考えてみたい。人として幸せになるために、だ。アディクションから回復するためにではない。回復は手段であって目的ではない。それに、どこに戻りたいというのだろうか。そもそも元いた世界がつらかったからアディクションが始まったのではないか。アディクションでそこから逃れたかったのではないか。

依存症の治療として、主訴だった症状が止まったことを達成だとみなす考え方が流布している。世間はおろか治療者も支援者もそう考えているふしがある。そのうえで「回復」が最もよいこととされている。「回復」とは、症状が止まるのみならず、社会の有用な一員となり、後続アディクトたちの手本となることであるという。ハードルが高すぎないか?

社会に望まれる回復とは「再適応」に他ならない。型が決まっている。むろんそれが当人にとっての最終目標であったならば、わたしとて異論はない。しかし、苦しかったところにまた帰りたいだろうか。本当に欲しかったものは、「幸せ」ではなかったか。そもそも幸せになりたかったからこそ、アディクションをしたはずだ。そう、幸せになりたくて始めたことだ。それがどんなにダメージがある方法だったにしても。

お酒を飲む人は、緊張をやわらげたくて飲んだ。すると緊張はやわらいで、幸せだったはずだ。その幸せが忘れられなかったからこそ、その方法に固着した。その方法しか知らなかった。その方法しか効かないと思い込んだ。その方法自体、ダメージの大きいものだったということは、始めたときには知らなかった。あるいは頭では知っていたとしても、今ここにある苦しみから逃れることで精一杯だった。切羽詰まっていた。

それだけの苦しみがあったということだ。本当はその苦しみ自体を取り扱えればいちばんよかったかもしれない。けれどそんな方法はわからなかったし、苦しみに直面すること自体が怖かったのだ。

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