「中宮彰子の出産後」に紫式部を襲った"深い憂鬱" 夜が明ければため息をつき、1人思い悩む日々
さて、出産後の一連の儀式の次にやって来る一大イベントは、道長の邸への行幸(天皇がお出かけになること)でした。
行幸の日が近づくにつれて、道長は邸内の整備に心を配ります。綺麗な菊を探し出させて、それを土御門殿(道長の邸)の庭に移植しました。白から紫に変色しているもの、黄色一色になっているものと、花の色もさまざま。
美しい花々を見て、紫式部の心も癒やされているのかと思いきや、そうではありませんでした。
日記には「朝霧の絶え間に見える花々を見ていると、老いも退いてしまいそうな気分になる。でも、なぜなのだろう。私にはそんな気持ちになれない」とあります。
無常感に取りつかれた紫式部
どうしたのでしょうか? 紫式部の声に耳を傾けてみましょう。
「もし私が世間並みの考えしか抱えていない人間ならば、風流だ、雅だと浮かれて、無常なこの世をやりすごしたことだろう。
しかし、現実の私はそうではない。素晴らしいことや素敵なことを見聞きしても、これまで密かに望んできた仏道のことに心が強く惹かれて、気が重く、嘆かわしさが募り、苦しいのだ。
どうにかして、何もかも忘れてしまおう。別にいい思い出というものもないことだし。これでは、罪障(往生の妨げとなる悪い行為)も深く、死後が思いやられる」
紫式部は無常感に取りつかれていたようです。そして出家したいという想いに達していたのでしょう。このような想いは、宮仕えしてから芽生えたものではなく、夫の藤原宣孝を亡くした辺りからのものだったと思われます。
紫式部の悩みは深く、夜が明ければため息をついて、水鳥が池で遊んでいる様子を見ては、1人思い悩んでいたのでした。
そしてこのような歌を詠んでいます。「水鳥を水の上とやよそに見む われも浮きたる世をすぐしつつ」
「呑気そうな水鳥を、水の上のよそ事だと私は思わない。私もまた他人からしたら、豪華な職場で浮かれ、地に足のつかない生活をしているように思われているのだ。でも、本当は水鳥だって大変なはず。私も、憂いばかりの人生をすごしているのだ」というような意味です。
中宮の出産は、紫式部にめったに見ることができない光景を見せてくれたことでしょう。その一方で、出産に関連する仕事のバタバタで、紫式部は少し疲れていたのかもしれません。
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