一方で、一条天皇を取り巻く政治的な環境は、どんどん変化していく。兼家の長男・道隆は娘を一条天皇に入内させることで、父と同じように外戚になろうと目論んだ。この娘こそが、一条天皇の運命を大きく左右する藤原定子である。
定子は正暦元(990)年1月25日、15歳のときに、4歳年下の一条天皇に入内する。後に一条天皇が、定子にあれほど執着したのは、2人が幼い頃から絆を深めた特別な関係だったからこそだろう。
しばらくして兼家が病により関白を辞すると、道隆が関白、さらに摂政となった。父が病死すると、道隆は自分がしてもらったように、嫡男の伊周を露骨に引き上げていく。
さらに、すでに皇后、皇太后、太皇太后の3人が「中宮」と称されているなかで、15歳の定子を一条天皇の中宮にし、いつも辛口の実資から「皇后4人の例は聞いたことがない」(皇后4人の例、往古、聞かざる事なり)と呆れられている。
そうして中関白家が最盛期を迎えるなか、一条天皇は、定子にとっては兄にあたる伊周とも親しく交流していたようだ。定子に仕えた清少納言は『枕草子』で、権大納言にまで昇進した伊周が、一条天皇のところにやってきて、漢詩の講義をしたときの様子をつづっている。
「いつものように、すっかり夜が更けてしまった」(例の、夜いたくふけぬれば)とあるので、漢詩について夜明けまで語り合うのが、恒例だったらしい。眠気に耐えられずに一条天皇が柱に寄りかかって居眠りした……そんなほほえましい光景が描写されている。
伊周の暴走を牽制し道長を引き上げた
気心知れた仲ということもあってか、父の道隆が病で伏せるようになると、伊周は一条天皇に「おねだり」するようになる。病で父が関白を辞すると、伊周は「関白の随身兵仗を自分につけさせてほしい」と一条天皇に申し出ている。
随身兵仗とは、関白の護衛を行いながら、その威厳を知らしめる存在のこと。伊周は当時、内大臣にもかかわらず、関白の護衛をつけてほしい、と言い出したのだから、宮中も冷めた目で伊周を見ていたことだろう。いつも辛辣な実資は「このことはきっと嘲笑されるだろう。ようやく顎が外れるほどのことだ」とまで言っている。
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