即位当日に「生首事件」一条天皇の波乱すぎる人生 政治環境が変わる一方、文芸や猫好きな素顔も

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後に一条天皇となる懐仁が生まれたのは、天元3(980)年6月1日のこと。治世がスタートしたのは、寛和2(986)年6月23日なので、たったの7歳(数え年)で即位したことになる。

8歳で即位した朱雀天皇や、9歳で即位した清和天皇や陽成天皇よりもさらに幼く、史上最年少(当時)で一条天皇は即位することになった。

一条天皇が即位したのは、先代の花山天皇が、東山の元慶寺で突然、出家してしまったからだ。その裏には一条天皇の祖父・藤原兼家による陰謀があった。

光る君へ 大河ドラマ 一条天皇 花山天皇
花山天皇が出家した元慶寺(写真: 金土日曜 / PIXTA)

兼家は孫を天皇に即位させるために、3男の道兼を花山天皇に接近させる。道兼は「ともに出家しましょう」と 言葉巧みに 花山天皇を誘い出して、剃髪を見届けてから、自分だけ宮中に戻っている。

「花山天皇を早く退位させたい」という父の意を受けた道兼は、見事にプロジェクトを成功させて、その結果、一条天皇が7歳の若さで即位することとなった。

7歳で即位した当日に起きた「生首事件」

天皇に即位した経緯からして「大人の陰謀」にまみれていた一条天皇。当然のことながら、よく思わなかった者もいたらしい。

『大鏡』によると、即位式の日に準備をしていると、大極殿の中央に設けられた天皇の座において、血のついた生首が発見されたという。

神聖な場所が穢されたとなれば、式典が中止になってもおかしくはない。だが、兼家は凶事の報告を受けても動じることなく、予定通りに一条天皇の即位式を決行している。

そんな異様な空気のなか、一条天皇の治世が始まることとなった。

即位して約1カ月後の7月25日、一条天皇は「服装や日頃の食事を倹約せよ(服御・常膳等を減ず)」と最初の詔を発している。

もちろん本人の意思ではなく、外祖父で摂政となった兼家が主導したのだろう。また、母の詮子も「国母」として幼帝を支えた。

実質的な政務を行う代わりに、一条天皇は学問に親しむことになる。同年の12月8日には読書始がスタート。講義を担当したのは大江斉光で、『御注孝経』をテキストとした。『御注孝経』は、唐の玄宗が撰述した『孝経』の注釈書で、漢文を学ぶ際に早くに親しまれることが多い書物である。以後、一条天皇は学問に励み、学識を磨いていくことになる。

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